文系も理系も一緒やん!?の話 その1
最近、大学の文系学部が廃止されるのではないかという話題が盛上がってますね。
国立大学が「文系廃止」を推し進める裏事情→安倍晋三首相の存在? - ライブドアニュース
生まれたときから文系だったと言っても過言ではない僕にとっては
わりと晴天の霹靂です。
そんなわけで、今回は「文系と理系」について僕の思うところを
書いておきたいと思います。
この話題について考えるようになったのは、ある親父の言葉がきっかけでした。
「哲学者とか現代思想家とか名乗ってる人って何がしたいの?」
この質問をされた時、僕は返答に困ってしまって
「俺からしたら理系もよくわかんねーよ…」
みたいな意味の無い答えしか返すことができませんでした。
同様の疑問を持つ人は文系にも多いのではないでしょうか。
では、「哲学者」や「現代思想家」、ひいては文系の存在意義とは
何なのでしょうか。
僕がたどり着いた答えは
「文系も理系もやりたいことは一緒やん!?」
です。
具体的に説明します。
文系の専門家がやりたいことというのは、
社会や人間について論理的に説明することなのです。
哲学者であれば「人間はなぜ生きるのか」、「人間はどう生きるべきなのか」
という問いに対する最大限の論理的過程を探求しているはずです。
構造について論理的説明を与えています。
(以上の説明には、僕の不勉強もあって誤りもあると思うのですが、要するに「文系は社会や人間に対して論理的説明を与えたいのだ」という論旨を分かっていただければ幸いです。)
では、逆に文系は何故これほど不遇の時代を迎えているのでしょうか。
一つには、言語的な限界があると思います。
ある新しい概念を伝えようとするとき、それを他人に完全に理解してもらうには
凄まじい労力が必要です。
新しい概念ですから、ニュアンスを抜け漏れなく伝えること無く伝えるためには言葉を尽くす必要がでてきます。
その過程で、一般の人には理解できないほど難しくなっていくのです。
専門家も専門用語を使うことが当たり前になっていくので
自分の学説を一般の人のために「翻訳」する努力を怠っていきます。
その結果、文系的学問は民衆から乖離し、役に立たない学問という評価を得てしまったのではないでしょうか。
逆になぜ理系はこれほど評価されているのでしょうか。
それは、理系という学問が非常に即物的だからです。
ものすごくざっくり言うと、
「理系の発展=お金、健康」
という方程式が成り立つからです。(別に批判しているわけではない。)
理系の学問も文系同様、民衆から乖離しているのですが
理系の専門家はとりあえず「○○に役立つ可能性がある」
といえば多くの人に理解されます。
例えば、東大のプレスリリース
運動や記憶を制御する膜タンパク質分子の内部運動を1分子観察 | UTokyo Research
全く何のことか分かりませんが、とりあえず創薬に役立つらしいです。
でも、この研究が創薬に結びついたかどうかを確かめる人は
ほとんどいません。
その辺りの思考停止がもたらしたのがSTAP問題なのでしょう。
あと、理系の再現可能性も理系発展の一因でしょう。
理系は実験が可能です。
ところが、文系は実験ができません。
「石灰石と塩酸でCO2 が発生する」のは何度でも再現可能ですが
「ヒトラーがいた場合、いないばあいで第二次大戦の結果を検証する」
なんてことはできないわけです。
余談ですが、以上の話は仏教の普及過程に似ています。仏教は日本に伝わった段階でほぼ哲学みたいになってたそうです。でも、民衆には難しすぎて当初の南都六宗(初期の仏教)の一部は衰退していきます。
代わりに、「念仏を唱えれば救われる」という浄土宗的な考えが普及しました。
理系の話も、「とりあえず学説とかは理解しなくてええよ!お金出してくれたらみんな長生きできたりお金稼げる技術作るよ!」っていうノリのようにぼくには思えます。
(もちろん、それは人間にとってすごく大切なのですが)
最後にまとめると、
「文系も理系も対象を論理的に説明したい」
という点では全く同じです。
この段階では優劣は生じないはずです。
その先の、「理系の即効性」と「文系の再現不可能性」が
現代における扱いの違いに影響しているのではないでしょうか。
じゃあ、文系どうしようか
っていう話はまたそのうち書きたいと思います。
もし読んでくれた人がいるなら感謝!