なすの日記

思考を散歩させるための場所

東京ナショナリズム

僕は、東京が好きだ。

田舎に住んでいたから、まだ都会を新鮮に感じられているのかもしれない。

これだけ、様々な情報があふれ、物理的な移動も便利になった世の中であっても、いまだに地方では「東京は怖い場所」であり続けている。

東京の人は冷たく、すぐに騙そうとしてくるし、しょっちゅう犯罪が起きている。

そんなイメージが地方では、再生産され続けている。

そんな悪評に東京は、どう反応してきたのか。

僕の記憶の限りでは、特に何の反論もなく、巨大なわりに無個性な街としてたたずんでいたような気がする。

 

しかし、最近、東京の自己主張が強いと感じる。
大ヒットした映画『君の名は』は、地方と東京を対比させ、明確に東京をポジティブに描いた作品だった。

今までなら、地方の「人の暖かさ」みたいなものが強調され、東京はネガティブな表現で描かれていたところだろう。

ヒットソングにも、やたら東京が出てくる。

Perfumeの「TOKYO GIRL」

三代目J Soul Brothersの「Welcome to Tokyo」

MAN WITH A MISSIONの「Dead End in Tokyo」

あと、最近ブレイク中のSuchmosの代表曲「Stay Tune」には、特に脈絡もなく「東京 Friday Night」という言葉が現れる。

 

リンクを押して、それぞれのPVを見てもらえれば分かると思うが、色調がどれも似通っている。

そして舞台は全て夜の東京。

三代目 J Soul BrothersMAN WITH A MISSIONは、海外展開を意識しているからか、海外から見た「ニッポン」的なイメージ、具体的にはサイバーパンク的なカットが多めに盛り込まれている。

歌詞もなんとなく同じようなメッセージだ。

とりあえず「東京には夢がある」といったところか。

Suchmosはたぶんバンドの方向性として「気取ってるやつみんな吹き飛べ」みたいな感じなので少し違うけども)

これらの映像に投影されているイメージは、僕らが暮らす日常の「東京」ではなく、観光客の視点を内面化した「TOKYO」だ。

 

スカスカな理由付けをすれば、東京オリンピックの存在は間違いなく大きいだろう。

しかし、仮にオリンピックが日本の別の都市で開催されたとして、都市ソングが生まれただろうか。

例え大阪でも怪しいと僕は思う。

オリンピックほど大きなイベントが、日本という小さな国土の国で開かれるのだから、「ニッポン」ソングが増えてもよさそうだ。(ニッポンソングといえば、2014年に発売された椎名林檎の「nippon」だろうか)

 

しかし、現実にはそうなっていない。

たぶん、僕らはもはや「日本」という単位で夢を見ることができなくなっているのかもしれない。

少なくとも東京で暮らす人間は、東京でしか夢を見ることができない、と思い始めているのかもしれない。

地方出身者として否定したいところだが、反論するのは難しい。

「しばらく人口増加が見込まれるのは東京くらい」という事実が色々と物語っている。

地方を盛り上げようと頑張っている人は沢山いるし、そういう人たちの試行錯誤は本当に価値あるものだと思う。

でも、これから地方が、東京のように、とまではいかずとも再び活気を取り戻し再発展する将来像は見えてこない。

もはや、日本という国そのものが衰えつつある中、僕らは最後の夢を「TOKYO」に託すしかなくなっているのかもしれない。

 

先ほど取り上げた歌たちには、「東京は他に類を見ない都市」という思想がぼんやりと反映されているような気がする。

欧米の都市とは決定的に異なるアジア的な都市でありながら、欧米と同等かそれ以上の発展を遂げた都市というの自己規定だろうか。

現に、東京を訪れる観光客は急増している。

しかし、必ずしも東京が世界の中で突出しているとは言えない。

観光客の増加は、東京に限らず、世界規模で起きている(テロがあった都市は減ったかもしれないが)

僕は行ったことがないから何とも言えないが、TOKYO的な統一感のない雑多な雰囲気は中国や韓国の大都市にも存在するだろう。

もちろん違いを探そうと思えば、そんなものはいくらでも出てくるのだ。

しかし、東京に暮らしているはずのクリエイター達が、外部から見た東京を表現しようとするのはなぜなのか。

まあ、彼らにとってはネオンの光で満たされ、みんながクラブで踊る光景こそが東京的なものなのかもしれない。

いや、やっぱりそんなの東京の日常ではないだろう。

今も昔も東京は、人でごった返し、無計画に雑多なビル群が林立する「洗練」とは程遠い街ではないか。

 

この東京愛とでもいうべきものを、僕は勝手に「東京ナショナリズム」と呼んでいる。

「東京って都市だから、ナショナルじゃないじゃん!」という突っ込みはもっともだが、都市愛を表現するための新たな単語を作るほど僕の考えは論理的に強くないし、東京への愛とかつての「愛国心」みたいなものはほぼ同じ感情だと思うので、あえてナショナリズムと呼ばせてもらう。

 

この「東京ナショナリズム」が、自分たちの目を曇らせやしないか心配だ。

世界には素晴らしい場所がたくさんあって、東京だけが特別ではない。

全て特別だ。

自分で「いかに東京がすごいか」なんてことを発信しなくても、外から訪れる「観光客」は勝手に東京の面白い側面を発見してくれる。

過剰な自意識が、東京の良さを殺してしまうかもしれない。

どう転がっても、東京オリンピックの後「東京ナショナリズム」は死ぬだろう。

厳密にいえば、東京の人口減少が始まる2025年あたりか。

その後のことを考えると怖い。

けども、まあ、今日から社会に飛び立つフレッシャーズたちがなんとかしてくれるだろう。

新社会人に幸あれ!!!(終わり方が雑)

 

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最近の自分は、ピリオドを打つ理由を探している気がする。

ただ、生かされている。

死んでいないだけ。

レールに乗っかり続けようとするのはしんどい。

かといって、レールから外れた先に何があるのだろう。

結局、レールから外れるというレールではないか。

「レールから外れた」というプライドと、そんな馬鹿を馬鹿みたいに尊敬する馬鹿からのわずかな称賛を支えに生きていくのは嫌だ。

プライドなんてものもない。

ただ、他人を馬鹿にして、上に立とうとする意欲があるだけ。

残念ながら、自分のそういう部分を嫌うだけの良心もわりと残っている。

気を張っていないと、どこまでも落ちていきそうな気もする。

ただ、なんのために気を張るのかは分からない。

大きな目的とか、そんなものがあるんじゃない。

ただ、落ちないようにしているだけ。

落ちないように頑張るのもわりと疲れる営みだ。

 

かといって、目的とか意義を信じて、前へ進むのも難しい。

簡単に目的や意図を信じ切れるはずがない。

簡単に、「他人の笑顔のために」とか「誰かの幸せのために」なんて言えない。

自分のやったことが本当に他人を幸せにしているのかなんて分からない。

誰かがどこかで不幸になるかもしれない。

そもそも、自分の実存すら曖昧にしか感じられない人間に、「他人の幸せ」なんて言葉を発する権利があるのか。

 

自分がいなくても世界が回っていくことを日々痛感する。

そもそも、「世界にとって不可欠な人」なんてこの世には未だかつて存在しなかったわけだが、

それでもその事実を改めて突き付けられるのは結構きつい。

誰が生きようと死のうと世界は回ってきたし、これからも回る。

他者にとって不可欠な人間になれないのなら、自分にとって自分が絶対的な存在になるしかない。

すなわち、圧倒的な自己肯定感。

そんなものがあればこんな文章は書いていないだろう。

どこかで起業して、3時間睡眠で高速PDCAを回し、一秒一秒圧倒的成長を遂げているだろう。

 

今の世の中に、自分のような優柔不断な人間の居場所はない。

全てが、すさまじいスピードで回っていて、あらゆることが意味があるとかないとかいう評価を受ける。

「意味がある」とか「意味がない」とかいうのは、言ってしまえば今後、価値を生むか生まないかに関する裁定だ。

ほとんどの価値は、金銭へと還元できる。

休学して行った留学での様々な体験について、「卒業が一年遅れたけど有意義な経験だね」なんていう他人の評価は、「一年卒業が遅れても、留学中の経験を生かせれば、君の生涯年収にはプラスに働くよ」と同義だというのはシニカルすぎるだろうか。

自分の行動は全て市場価値を高めるための活動だったような気がしてくる。

逆に言えば、それだけなんでも市場価値に還元される世の中だということだ。

自分の価値なんて測れるはずがないと思う。

その考えを自己肯定感につなげられないのなら、自己否定に向かうしかない。

自分に付けられた値段を受け入れるか、誰に批判されようとも自分を疑わない強さを持つのか、誰かに批判されたり低い値段を付けられる前に予め自分の全てを否定するのか。

このどれかの態度をとることになる。

評価を付けられることにも評価を付けられないことにも耐えられない。

他人が他人を評価できるはずがないと思いながら、評価抜きで自立しても良いと思えるほどの価値を自分に感じない。

今は、そういう発想に目を瞑り、ごまかしながら生きている。

いつまでごまかせるのかは分からないし、ずっとごまかしていける気もする。

 

努力とは、何もない自分が生きていく理由を増やすためのものだと思う。

他人に還元できる能力を磨くために努力し、それを市場価値という形で確認し、再び努力する。

だから、努力を怠ってきた人間が自分に価値を感じられず、空っぽになるのは当然なのだ。

そんな空虚さに耐えきれなくなるのも時間の問題だ。

もう少しだけ、自分にチャンスを与えてみることとしよう。

メディアについて思うこと -某新聞社でのインターンと最近の情勢から-

先日、とある新聞社のインターンシップに参加させてもらった。

正直、あまりメディアは志望していないのだけど、いろいろあって機会を頂いた。

僕が気になっていたのは、インターンの内容ではなく、巨大なメディアとジャー成純の中身だ。

どんな社員(記者)がいて、どういう考えで会社が動いているのか。

それを知りたかった。

特に新聞は、オールドメディアの代表格として、散々に叩かれることが多い。

個人としては、「嫌われすぎだろ…」と思うこともあれば、「どうしてこんなこと書いちゃうんだろう」と感じることもある。

保守的な思想をもつ人が、もはや報道の内容に関係なく新聞社を非難していることにも否定的だし、一方で、時に新聞の側が特定の政治思想に肩入れしすぎているのではないかと感じることもある。

また、各新聞社が保守とリベラル(右派と左派)どちらに属するのかに関しても、なんとなく世間で共通の了解があって、そのバイアスに基づいて新聞社に関する議論が行われることも多い。

そういう思想的偏向のようなものは実際にあるのか。

現場の記者は何を考えて記事を書いているのか。

世間が持つイメージをどう考えているのか。

以上の問題意識で、インターンに参加した。

 

まず、会社全体としてなんらかの思想的な指針はあるのか、という点だが、

記者さんいわく「ない」とのことだった。

まあ、そんな「社訓」みたいなものが存在するのであればとっくに世の中に出回っているだろう。

左派と呼ばれる新聞にも右翼の記者はいるし、その逆もしかりということだった。

もちろんインターンの中で特定の思想を刷り込まれることもない。

 

一方で、非常に気になったのが、新聞社の役割には確固たる自分の考えを持っている人が多かったことだ。

権力の監視、弱者の救済、民主主義の基盤となる。

そういう使命感を持っている方が本当に多かった。

実感でしかないが、みな建前ではなく、本気でその使命感を軸に仕事をしていた。

一言で言えば、非常に「マジメ」という印象を受けた。

それは、インターンの参加者も同じだった。

みな、なんらかの使命感を持っている。

イマドキ、就活において本気で使命感を持っている人がどれくらいいるだろう。

 

感銘を受けた一方で、このマジメさが空回りしているのが、今のジャーナリズムのおかれた厳しい状態を引き起こしているのでは、とも思った。

彼らは、権力を監視によって権力の暴走を防ぐこと、弱者の状況を広く人々に知らしめることで行政を動かすこと、といった使命感を持っている。

しかし、彼らがよって立つ基盤が揺らいでいるとしたら?

権力を監視する必要なんてないと考える人。

弱者の状況なんて知りたくない、

或いは、弱者のことを取り上げるといいながら自分たちのことは取り上げないじゃないかと怒る人。

そういう人が増えつつあるとしたら?

そんな想像は、彼らの中でなされていないか、非現実的だと思われているような気がした。

 

しかし、現実には、ジャーナリズムが自らの存在意義の基盤に位置付ける「民主主義」という制度そのものが欠陥を露呈しつつある。

その課題を突き付けたのは、言うまでもなくトランプだ。

トランプ大統領の誕生は、間違いなく民主主義の欠陥だ。

多数決は、マイノリティを抑圧する方向に作用する。

アメリカ国民の半数は、理性的な決断を下す「リーダー」ではなく、自分達の主張を代弁する強力な「王」を選んだ。

「王」が代弁する主張によって、不利益を被る層がいたとしても知ったことではない。

仮に、自分たちの主権が制限されても、「王」がうまくやってくれるのならそれでいい。

民主主義は、その主権者によって否定されつつある。

 

民主主義が否定されるということは、民主主義を基盤に持つジャーナリズムも否定されるということだ。

メディアによる「王」の否定は、「王」を選んだ自分たちへの否定へとつながる。

ジャーナリズムが守ろうとしてきた「国民」は、権力を支持する側に立とうとしている。

 

ジャーナリズムの側は、自らが守ろうとしてきた人々に攻撃される状況を受け入れられない。

そのフラストレーションは権力へと向かう。

その過程で、ジャーナリストたちの持つ強い使命感が、時には過剰に思えるほど強い論調を生むのかもしれない。

ジャーナリズムの役割は人々を「反権力」の名の下に連帯させるという方向から、「親権力派」と「反権力派」に意図せず分断させる方向に転じ始めた。

いまや権力の側が、SNSを通じてメディアと同じかそれ以上の発信力を持ちつつあることも、この傾向に拍車をかけるだろう。

人種や宗教に対する差別を助長するような思想はもちろん問題だが、分断が深まりつつある状況にあっても民主主義を盲信し、トランプ支持者を罵ることしかできないリベラルにも深刻な問題がある。

 

ジャーナリズムが抱える問題は、インターネットの普及で紙の新聞やテレビを見る人が減ることではない。

ジャーナリズムの根幹が否定されつつあることが問題なのだ。

そういう意味で、今のジャーナリズムの将来性は危ういと思う。

この状況が記者さんの努力とか経営努力みたいなものでどうにかできるレベルなのかは分からない。

できるだけ早くこの状況を変えようもがけば、それはジャーナリズムによる権力への過剰な(時には客観的証拠にも欠ける)攻撃やリベラルを名乗る人々による過激なデモという手段をとることになるだろう。

それは自分たちの立つ基盤を自ら破壊する自爆に他ならない。

しかし、少なくともアメリカではそういう方向に進んでいるような気もする。

かといって、差別が許されてはならないし、困難な状況にある人を切り捨て、自分だけが助かることを求めるような主張は慎まれるべきだと思う。

分断が深化する状況をすぐには止められないだろう。

もしかしたら、何らかの大きな痛手を負わなければ人間は学べないのかもしれない。

 

それでも、「どうにもならない」とか「これが人間だ」と言い切ることが、知性的と言われてはならない。

「人類の未来」という途方もなく深遠かつ滑稽なテーマに、本気で取り組み続けなければならないのだと思う。

少なくとも、エリートと呼ばれる人達だけは…。

 

 

 

言葉を置き去りにして

自分は、強く言葉に束縛された人間だと思う。

何をするにしても言葉にしてみないと気が済まない。

「脳内会話」で済むこともあれば、口にだしたり書いてみたりしないと落ち着かないことも多い。

どこかへ行くときも「よし、大学へ行こう」と、頭のなかで言葉にしている。

一方で、言葉にした瞬間、伝えたい内容は自分にとって唯一特別なものから、他人も理解できるありふれたものに変わってしまう。

街頭でちょうどいいタイミングでティッシュをもらっても、

一浪して第一志望の大学に受かっても

同じ「うれしい」という言葉になってしまう。

いかに自分が今までの人生の中で、その瞬間を特別なものに感じたか伝えようとすれば、「うれしい」に至った状況や様子をどんどん付け足していくわけだが、言葉は長くなっていく。

心の底から湧きあがる感情は、一瞬のできごとで、

それを説明するための言葉の長ったらしさには段々幻滅を覚えていく。

特別な感情を伝えるためには、特別な語彙があるわけだが、

語彙の希少さが上がるほど、他人には理解してもらえなくなる可能性が上がる。

こうして、自分にとって唯一特別な感覚は、言葉にした瞬間に色を失う。

 

一方で、現代はあらゆる事象を言葉にし、あらゆる情報を言葉で得ようとする時代だと思う。

動画や画像でのコミュニケーションが流行っていると言われているけれど、

授業からSNSまで、情報伝達の基本は言葉だし、

映像や画像の中にも言葉がたくさん含まれている。

純粋に映像や音声だけのコミュニケーションは少ない。

対数は増えているにしても、それを圧倒的に上回るスピードでテキストや音声による言語コミュニケーションが氾濫しつつある。

だから、頭の中は常に言葉であふれてしまう。

特に他人に伝える必要がないことでさえ、脳内で言葉にしてしまう。

 

この癖は、自分という世界に一人しかいない存在を考えるときに結構深刻な問題を引き起こすのではないかと思う。

自分という存在は、今も昔もここにいる自分ひとりだけで、自分の感情や思考を100%他人と共有することはできない(できたとしても、確認する術がない)。

だからこそ、どのような状況で何を感じ、その後どのように行動しようと、勝手なわけだが、体験を安易に言葉にすると、その体験は誰にでも理解可能な汎用品になってしまう。

汎用品としての自分に存在意義を感じるのは難しい。

この世界の中で、特別でもなんでもない自分など存在しなくても良いような気がする。

 

言葉は一つの枠のようなものだ。

枠があるからこそ、たくさんの人に理解してもらえる。

一方で、本当に独創的なものは枠に収まらないはずだ。

言葉では説明できない何か。

あるいは、新しい言葉・枠を作って説明せざるをえないような何か。

本当は、誰の胸にもそういう感覚があるのではないか。

全てを他人に分かるように説明しなければならないというプレッシャー、あるいは自分の全てを他人に理解してほしいという実現不可能な欲望のせいで、自分だけの特別な体験や感情が、ネット上に無数に転がっているようなストーリー、誰かが既に生きてしまっているストーリーに成り下がってしまっているのではないか。

 

例え、言葉にした時に、似たような感情・体験・人生がデータベース上に存在していようと、その感情・体験・人生は今、この場で確かな実感を持って生きている自分だけのものだ。

逆に言えば、自分が感じたことくらいしか、確かなものなんて存在しない。

お互いが100%完全に理解することなんてできないのだから、他人に何かを伝えるための言葉は常に不完全で頼りないツールだ。

もちろん、言葉はいらないとか、感情は歌や踊りで表現しろ!なんてことを言っているのではない。

 

ただ、本来、自分の体験はあらゆる表現ツールを置き去りにすべきなのだ。

いかなる手段を使ったとしても、伝えきれるものではないし、もはや伝わらなくてもいい。

それでも、自分の中に湧きおこった何かを外に出さずにはいられない。

言葉が世の中に氾濫すればするほど、意識に浸透した言葉は感情を飼いならす。

湧き上がる衝動を言葉が蓋をする。

 

そんな時代だからこそ、言葉という檻を打ち破り、言葉を置き去りにした表現のできる人間が必要とされている。

どこかで聞いたことがあるような、誰にでも「分かる」と言われてしまうようなありふれた言葉、説明を超えて、

底から湧きあがるような「叫び」を。

自分のやり方で

心の整理のための雑記…

 

 

物事に優先順位をつけるのは難しい。

やりたいこともたくさんあれば、やらなければいけないこともたくさんある。

あれもこれもと思っているうちに、時間は過ぎて結局何も終わっていなかったりする。

本当にやりたいことをやるために、やりたくない準備や練習が必要だったりもする。

「若いうちはなんでもできるよ」と言われてきたけど、一番やりたいことを決めなければ身動きが取れなくなってきた。

相互に関係の薄いことを、どれも並行して進めることはできない。

こんなにやりたいこと、やるべきことがたくさんあるのに、

なぜ僕は布団から出られないのだろう。

なぜ僕はテレビの前から離れられないのだろう。

それは逃避なのか。

主体的に何かをやるということは、労力をともなうことかもしれないけど、

それはまぎれもなくやりたいことのはずだったのに。

しかし、「やりたかったこと」はいつの間にか「やるべきこと」へと変質してしまうのかもしれない。

やりたいことを思いついては、やるべきことへと堕していく。

やりたいことをやりたいことのままにしておくにはどうすればいいのだろう。

時間を忘れるほど取り組むにはどうしたらいいのだろうか。

一度、時間という概念から離れてみようか。

「限りがある」と言われると焦る。

実際、焦らなければならないこともある。

ただ、一度それを忘れてみようか。

子供の頃は確かにそうだった気がする。

目の前のことに専心できないときはいつも「今これをやっていて良いのか」という迷いがあるような気がする。

だからこそ優先順位が大切というつまらない話になるのかもしれないけど。

それは、今、自分の取り組んでいることが本当に今取り組むべきことなのだと信じられる強い自信みたいなものも必要になるのかもしれない。

 

世界には、「こうしたほうがいい」とか「こうすべきだ」という言説が氾濫している。

みんな、やりたいこと、つまりは「目的」をもっていて、その達成のための手段としてそういう「べき論」みたいな情報は生み出されるのだろう。

ただ、そういうものは他人が感じたことで、参考にしかならない。

他人事なのだ。

そんな情報に埋もれて身動きが取れずに時間がすぎるのも悲しい気がしてきた。

自分がやりたいことを自分のやり方で。

そういう基本があったうえで役立つのが他人の意見ということだろうか。

情報をせっせと摂取する前に、自分のやり方でやってみよう。

情報疲労

流れてくる情報に、反射的に反応してしまうことがある。

世の中の理不尽さに、腹が立って

自分には関係ないはずなのに怒りを表明してみたりする。

そういうことで、疲弊したりする。

世の中の情報の大半は、誰かが何らかの意図を持って発信したもの。

SNS時代の情報は、誰かに何を伝えることよりも、

読後に何らかの感情を喚起させようとしてくる。

それも、とても単純で動物的な感情。

「なぜこんな理不尽が?」

「どうしてこんなに馬鹿なの」

という怒りとか

「子猫かわいい」

みたいな感情まで。

後から、その情報がゆがめられていて、読者をの感情に対する強い指向性があったとしても、

感情はその分析よりも早く押し寄せる。

僕はそこで疲れてなにか思うことをやめてしまうけど、

憑かれたように攻撃し続ける

自分とは関係のない世界の誰かをなぜ攻撃しなければならないのだろう。

なぜ何か述べることを止められないのだろう。

 

自分の中の正義感とか、頭の良さをひけらかしたい気持ちとか

そんなところだろうか。

情報を発信する側も、情報を受け取る側も何かに憑かれている。

論理や理想といったことではなくて、もっと手前の安易で動物的な部分を揺さぶろうとする人がいる。

そこから生まれる感情に身を任せる人がいる。

どちらにしても、それは未来を思った行動ではない。

どうしようもない軽さ。

嵐が去ったあとの壊滅的な状況を何も考えない軽薄さ。

祭なのだ。

責任を問われれば、自分は関係ないというだろう。

 

後片付けをするのは知性のある人たちだ。

片づけ終わる前にまた次の嵐が来る現実には閉口する

知らない世界のことを知らない人たちがあれこれ言って、それに何かを思う自分がいる。

どこで線引きすべきなのかは難しい。

偶然性の中で

意図したことが、意図した通りになる時もあれば、意図しない結果に終わる時もある。

どちらにしても、意図ってなんなのだろうと思う。

こうありたい。

こうすべきだ。

こっちの方が良い。

何らかのベクトルを持って、前に進もうとするけれど、それが実現するかは分からない。

「自分の努力が足りないのかもしれない。」

「認識が甘かったのかもしれない。」

「あとこれだけ頑張れば次は大丈夫。」

きっとこんな調子で死ぬまで意図をもって頑張るんだろう。

明るい未来を描き、その実現のために前進し続けるのだろう。

それは幸せな人生だ。

たくさんの人に出会って、たくさん成果を残して、文句のつけようの無い人生だ。

 

しかし、時には思い通りにいかないときもある。

それが、単なる運の悪さというより自分の怠惰さや甘さが原因の失敗だという場合もこの先たくさんあるだろう。

自分の将来像を描いたり、その実現のためにすべきことを並べたり、過去を反省してみたり。

 

そんな無限に続くかに思われるカイゼンの連続に、疲弊してしまう瞬間があると最近気づいた。

もっと良い人間になりたいし、成長したいというのは偽りのない心情だ。

そのためのやる気が無限に湧いてくる人も中にはいる。

でも、僕は違う。

意図を持っては失っての繰り返し。

自分の過去の中から、前に進むための材料というか燃料みたいなもの(まあ、モチベーションか)を必死で探してみるものの、その探すという行為自体が疲れるのだ。

 

しかし、前に向かうベクトルみたいなものを自分の中に感じられないとき、ひどく自分が無価値でどうしようもない空っぽのように感じられてならない。

みんな、前に進んでいる。

何かを目指している。

良くなっている。

それなのに自分は。

一生甘えて暮らしたいわけでも、楽をしたいわけでもない。

ただ、いつどんな瞬間も向上心を求める自分には辟易する。

一方で、そこで頑張れない自分を見せつけられるのも苦しい。

 

ずっと、「どうしたいの?」と他人にも自分にも問われ続けている。

心の中の汚い押入れをまさぐって、苦し紛れに意志を取り出す。

いつの間にか、取り出したものを奇麗にして他人や自分に見せる技術が身についた。

それが、本当にきれいなものなのか、本当は汚いものを取り繕っただけなのかもわからない。

全部が嘘なわけではないし、全部が真実でもない。

嘘が真実になることもあれば、その逆もある。

口にだしたこと、文字にしたこと、行動したこと。

その全てを本当だとか、あるいは、嘘だとか言い切って信じ切ってしまいたい暴力的な衝動も、奥底にあるような気がするけれど、それは分かっていても覗いちゃいけない。

 

ちょっと話は変わる。

こんなに意図とか夢とか目標とかが大切にされるようになったのは、人間が沢山のルールを築き上げて、偶然という要素を可能な限り排除してきたからだと思う。

人間は、偶然に耐えられない。

次の瞬間、地震が起きて自分や愛する人が死んでしまうことや、他人の気分で自分の運命が変わってしまうことに耐えられない。

しかし、自然は全て偶然からなるものだ。

そこに、石が落ちていたり木が生えていたり雨が降ったり大地震が起きたりすることに、メカニズムはあっても意図はない。

動物だって、会話したことはないからわからないけど、たぶん全て意図を持った行動というよりは反応しているに過ぎない。

人間もそうだと言われれば言い返せないけど、少なくとも自分では意志を持っていると思い込んでいるし、意図が実現できなければ気に入らない。

自分以外の存在が、何の意図もなくただそこに存在し、ただ事が起きるという現実が受け入れられない。

偶然なんて理不尽は許されないのだ。

全てのことは、意思と努力によって達成可能であり、実現できなかったならば、何かが足りなかったということ。

全てが自分の責任になる。

だからこそ、もっと良くなれるのだ(「良い」にも色々あるが)。

 

でも、本当にそうかな。

たぶん違う。

生れ落ちる場所を子供は選べないし、親も子供を選べない。

全部偶然。

人間は、他者から隔絶した状態で人間として存在することはできないわけだが、そのコミュニケーションツールである言葉は悲しいくらい不完全だ。

たぶんどれだけ頑張っても伝えたいことの1%くらいしか伝わらない。

だいたい100%伝わったとしても、それは確認しようのないことだ。

たぶん、僕が書いたこの文章もタンポポの種みたいに、どこにどういう形で芽を出すのか、あるいは出さないのかも分からない。

他の表現ツールも同じ。

結局、人間も偶然性の中にあるのだ。

意図なんてものは、伝えようとして外に出した瞬間に、圧倒的な誤配の可能性に晒され続ける。

そんな不安定な現実を直視すれば、気が狂ってしまいそうになる。

何一つ確実でない現実から離れる手段を、それぞれの人間は一つだけ持っていて一度だけ使うことができるけれど、できれば使いたくないし使ってほしくもない。

 

ただ、その不確実な現実を受け入れられる姿勢を持った人間を想定したとき、そこに強さを感じるのは僕だけだろうか。

頼りない現実と頼りない自分に甘えてはいけないけれど、甘えなかったところでどうにかなるほど甘くないときもある(めんどくさい表現!)。

ある種の大きな諦念と、「それでも」といってたまには前を向く姿勢。

持とうと思って持つのではなく、そこに存在していて、たまに誰かが思い出させてくれるくらいがちょうどいい。