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なすの日記

思考を散歩させるための場所

言葉を置き去りにして

自分は、強く言葉に束縛された人間だと思う。

何をするにしても言葉にしてみないと気が済まない。

「脳内会話」で済むこともあれば、口にだしたり書いてみたりしないと落ち着かないことも多い。

どこかへ行くときも「よし、大学へ行こう」と、頭のなかで言葉にしている。

一方で、言葉にした瞬間、伝えたい内容は自分にとって唯一特別なものから、他人も理解できるありふれたものに変わってしまう。

街頭でちょうどいいタイミングでティッシュをもらっても、

一浪して第一志望の大学に受かっても

同じ「うれしい」という言葉になってしまう。

いかに自分が今までの人生の中で、その瞬間を特別なものに感じたか伝えようとすれば、「うれしい」に至った状況や様子をどんどん付け足していくわけだが、言葉は長くなっていく。

心の底から湧きあがる感情は、一瞬のできごとで、

それを説明するための言葉の長ったらしさには段々幻滅を覚えていく。

特別な感情を伝えるためには、特別な語彙があるわけだが、

語彙の希少さが上がるほど、他人には理解してもらえなくなる可能性が上がる。

こうして、自分にとって唯一特別な感覚は、言葉にした瞬間に色を失う。

 

一方で、現代はあらゆる事象を言葉にし、あらゆる情報を言葉で得ようとする時代だと思う。

動画や画像でのコミュニケーションが流行っていると言われているけれど、

授業からSNSまで、情報伝達の基本は言葉だし、

映像や画像の中にも言葉がたくさん含まれている。

純粋に映像や音声だけのコミュニケーションは少ない。

対数は増えているにしても、それを圧倒的に上回るスピードでテキストや音声による言語コミュニケーションが氾濫しつつある。

だから、頭の中は常に言葉であふれてしまう。

特に他人に伝える必要がないことでさえ、脳内で言葉にしてしまう。

 

この癖は、自分という世界に一人しかいない存在を考えるときに結構深刻な問題を引き起こすのではないかと思う。

自分という存在は、今も昔もここにいる自分ひとりだけで、自分の感情や思考を100%他人と共有することはできない(できたとしても、確認する術がない)。

だからこそ、どのような状況で何を感じ、その後どのように行動しようと、勝手なわけだが、体験を安易に言葉にすると、その体験は誰にでも理解可能な汎用品になってしまう。

汎用品としての自分に存在意義を感じるのは難しい。

この世界の中で、特別でもなんでもない自分など存在しなくても良いような気がする。

 

言葉は一つの枠のようなものだ。

枠があるからこそ、たくさんの人に理解してもらえる。

一方で、本当に独創的なものは枠に収まらないはずだ。

言葉では説明できない何か。

あるいは、新しい言葉・枠を作って説明せざるをえないような何か。

本当は、誰の胸にもそういう感覚があるのではないか。

全てを他人に分かるように説明しなければならないというプレッシャー、あるいは自分の全てを他人に理解してほしいという実現不可能な欲望のせいで、自分だけの特別な体験や感情が、ネット上に無数に転がっているようなストーリー、誰かが既に生きてしまっているストーリーに成り下がってしまっているのではないか。

 

例え、言葉にした時に、似たような感情・体験・人生がデータベース上に存在していようと、その感情・体験・人生は今、この場で確かな実感を持って生きている自分だけのものだ。

逆に言えば、自分が感じたことくらいしか、確かなものなんて存在しない。

お互いが100%完全に理解することなんてできないのだから、他人に何かを伝えるための言葉は常に不完全で頼りないツールだ。

もちろん、言葉はいらないとか、感情は歌や踊りで表現しろ!なんてことを言っているのではない。

 

ただ、本来、自分の体験はあらゆる表現ツールを置き去りにすべきなのだ。

いかなる手段を使ったとしても、伝えきれるものではないし、もはや伝わらなくてもいい。

それでも、自分の中に湧きおこった何かを外に出さずにはいられない。

言葉が世の中に氾濫すればするほど、意識に浸透した言葉は感情を飼いならす。

湧き上がる衝動を言葉が蓋をする。

 

そんな時代だからこそ、言葉という檻を打ち破り、言葉を置き去りにした表現のできる人間が必要とされている。

どこかで聞いたことがあるような、誰にでも「分かる」と言われてしまうようなありふれた言葉、説明を超えて、

底から湧きあがるような「叫び」を。

自分のやり方で

心の整理のための雑記…

 

 

物事に優先順位をつけるのは難しい。

やりたいこともたくさんあれば、やらなければいけないこともたくさんある。

あれもこれもと思っているうちに、時間は過ぎて結局何も終わっていなかったりする。

本当にやりたいことをやるために、やりたくない準備や練習が必要だったりもする。

「若いうちはなんでもできるよ」と言われてきたけど、一番やりたいことを決めなければ身動きが取れなくなってきた。

相互に関係の薄いことを、どれも並行して進めることはできない。

こんなにやりたいこと、やるべきことがたくさんあるのに、

なぜ僕は布団から出られないのだろう。

なぜ僕はテレビの前から離れられないのだろう。

それは逃避なのか。

主体的に何かをやるということは、労力をともなうことかもしれないけど、

それはまぎれもなくやりたいことのはずだったのに。

しかし、「やりたかったこと」はいつの間にか「やるべきこと」へと変質してしまうのかもしれない。

やりたいことを思いついては、やるべきことへと堕していく。

やりたいことをやりたいことのままにしておくにはどうすればいいのだろう。

時間を忘れるほど取り組むにはどうしたらいいのだろうか。

一度、時間という概念から離れてみようか。

「限りがある」と言われると焦る。

実際、焦らなければならないこともある。

ただ、一度それを忘れてみようか。

子供の頃は確かにそうだった気がする。

目の前のことに専心できないときはいつも「今これをやっていて良いのか」という迷いがあるような気がする。

だからこそ優先順位が大切というつまらない話になるのかもしれないけど。

それは、今、自分の取り組んでいることが本当に今取り組むべきことなのだと信じられる強い自信みたいなものも必要になるのかもしれない。

 

世界には、「こうしたほうがいい」とか「こうすべきだ」という言説が氾濫している。

みんな、やりたいこと、つまりは「目的」をもっていて、その達成のための手段としてそういう「べき論」みたいな情報は生み出されるのだろう。

ただ、そういうものは他人が感じたことで、参考にしかならない。

他人事なのだ。

そんな情報に埋もれて身動きが取れずに時間がすぎるのも悲しい気がしてきた。

自分がやりたいことを自分のやり方で。

そういう基本があったうえで役立つのが他人の意見ということだろうか。

情報をせっせと摂取する前に、自分のやり方でやってみよう。

情報疲労

流れてくる情報に、反射的に反応してしまうことがある。

世の中の理不尽さに、腹が立って

自分には関係ないはずなのに怒りを表明してみたりする。

そういうことで、疲弊したりする。

世の中の情報の大半は、誰かが何らかの意図を持って発信したもの。

SNS時代の情報は、誰かに何を伝えることよりも、

読後に何らかの感情を喚起させようとしてくる。

それも、とても単純で動物的な感情。

「なぜこんな理不尽が?」

「どうしてこんなに馬鹿なの」

という怒りとか

「子猫かわいい」

みたいな感情まで。

後から、その情報がゆがめられていて、読者をの感情に対する強い指向性があったとしても、

感情はその分析よりも早く押し寄せる。

僕はそこで疲れてなにか思うことをやめてしまうけど、

憑かれたように攻撃し続ける

自分とは関係のない世界の誰かをなぜ攻撃しなければならないのだろう。

なぜ何か述べることを止められないのだろう。

 

自分の中の正義感とか、頭の良さをひけらかしたい気持ちとか

そんなところだろうか。

情報を発信する側も、情報を受け取る側も何かに憑かれている。

論理や理想といったことではなくて、もっと手前の安易で動物的な部分を揺さぶろうとする人がいる。

そこから生まれる感情に身を任せる人がいる。

どちらにしても、それは未来を思った行動ではない。

どうしようもない軽さ。

嵐が去ったあとの壊滅的な状況を何も考えない軽薄さ。

祭なのだ。

責任を問われれば、自分は関係ないというだろう。

 

後片付けをするのは知性のある人たちだ。

片づけ終わる前にまた次の嵐が来る現実には閉口する

知らない世界のことを知らない人たちがあれこれ言って、それに何かを思う自分がいる。

どこで線引きすべきなのかは難しい。

偶然性の中で

意図したことが、意図した通りになる時もあれば、意図しない結果に終わる時もある。

どちらにしても、意図ってなんなのだろうと思う。

こうありたい。

こうすべきだ。

こっちの方が良い。

何らかのベクトルを持って、前に進もうとするけれど、それが実現するかは分からない。

「自分の努力が足りないのかもしれない。」

「認識が甘かったのかもしれない。」

「あとこれだけ頑張れば次は大丈夫。」

きっとこんな調子で死ぬまで意図をもって頑張るんだろう。

明るい未来を描き、その実現のために前進し続けるのだろう。

それは幸せな人生だ。

たくさんの人に出会って、たくさん成果を残して、文句のつけようの無い人生だ。

 

しかし、時には思い通りにいかないときもある。

それが、単なる運の悪さというより自分の怠惰さや甘さが原因の失敗だという場合もこの先たくさんあるだろう。

自分の将来像を描いたり、その実現のためにすべきことを並べたり、過去を反省してみたり。

 

そんな無限に続くかに思われるカイゼンの連続に、疲弊してしまう瞬間があると最近気づいた。

もっと良い人間になりたいし、成長したいというのは偽りのない心情だ。

そのためのやる気が無限に湧いてくる人も中にはいる。

でも、僕は違う。

意図を持っては失っての繰り返し。

自分の過去の中から、前に進むための材料というか燃料みたいなもの(まあ、モチベーションか)を必死で探してみるものの、その探すという行為自体が疲れるのだ。

 

しかし、前に向かうベクトルみたいなものを自分の中に感じられないとき、ひどく自分が無価値でどうしようもない空っぽのように感じられてならない。

みんな、前に進んでいる。

何かを目指している。

良くなっている。

それなのに自分は。

一生甘えて暮らしたいわけでも、楽をしたいわけでもない。

ただ、いつどんな瞬間も向上心を求める自分には辟易する。

一方で、そこで頑張れない自分を見せつけられるのも苦しい。

 

ずっと、「どうしたいの?」と他人にも自分にも問われ続けている。

心の中の汚い押入れをまさぐって、苦し紛れに意志を取り出す。

いつの間にか、取り出したものを奇麗にして他人や自分に見せる技術が身についた。

それが、本当にきれいなものなのか、本当は汚いものを取り繕っただけなのかもわからない。

全部が嘘なわけではないし、全部が真実でもない。

嘘が真実になることもあれば、その逆もある。

口にだしたこと、文字にしたこと、行動したこと。

その全てを本当だとか、あるいは、嘘だとか言い切って信じ切ってしまいたい暴力的な衝動も、奥底にあるような気がするけれど、それは分かっていても覗いちゃいけない。

 

ちょっと話は変わる。

こんなに意図とか夢とか目標とかが大切にされるようになったのは、人間が沢山のルールを築き上げて、偶然という要素を可能な限り排除してきたからだと思う。

人間は、偶然に耐えられない。

次の瞬間、地震が起きて自分や愛する人が死んでしまうことや、他人の気分で自分の運命が変わってしまうことに耐えられない。

しかし、自然は全て偶然からなるものだ。

そこに、石が落ちていたり木が生えていたり雨が降ったり大地震が起きたりすることに、メカニズムはあっても意図はない。

動物だって、会話したことはないからわからないけど、たぶん全て意図を持った行動というよりは反応しているに過ぎない。

人間もそうだと言われれば言い返せないけど、少なくとも自分では意志を持っていると思い込んでいるし、意図が実現できなければ気に入らない。

自分以外の存在が、何の意図もなくただそこに存在し、ただ事が起きるという現実が受け入れられない。

偶然なんて理不尽は許されないのだ。

全てのことは、意思と努力によって達成可能であり、実現できなかったならば、何かが足りなかったということ。

全てが自分の責任になる。

だからこそ、もっと良くなれるのだ(「良い」にも色々あるが)。

 

でも、本当にそうかな。

たぶん違う。

生れ落ちる場所を子供は選べないし、親も子供を選べない。

全部偶然。

人間は、他者から隔絶した状態で人間として存在することはできないわけだが、そのコミュニケーションツールである言葉は悲しいくらい不完全だ。

たぶんどれだけ頑張っても伝えたいことの1%くらいしか伝わらない。

だいたい100%伝わったとしても、それは確認しようのないことだ。

たぶん、僕が書いたこの文章もタンポポの種みたいに、どこにどういう形で芽を出すのか、あるいは出さないのかも分からない。

他の表現ツールも同じ。

結局、人間も偶然性の中にあるのだ。

意図なんてものは、伝えようとして外に出した瞬間に、圧倒的な誤配の可能性に晒され続ける。

そんな不安定な現実を直視すれば、気が狂ってしまいそうになる。

何一つ確実でない現実から離れる手段を、それぞれの人間は一つだけ持っていて一度だけ使うことができるけれど、できれば使いたくないし使ってほしくもない。

 

ただ、その不確実な現実を受け入れられる姿勢を持った人間を想定したとき、そこに強さを感じるのは僕だけだろうか。

頼りない現実と頼りない自分に甘えてはいけないけれど、甘えなかったところでどうにかなるほど甘くないときもある(めんどくさい表現!)。

ある種の大きな諦念と、「それでも」といってたまには前を向く姿勢。

持とうと思って持つのではなく、そこに存在していて、たまに誰かが思い出させてくれるくらいがちょうどいい。

自分の時間 他人の時間

「自分の時間がほしい」と言ってしまうことがよくある。

基本的には、一人で好きに過ごす時間というような意味で使っている。

「自分の時間」というと、その時間は完全に、自分でコントロールできているかのように思える。

でも、本当に自分の時間、プライベートな時間を自分のものにできているのだろうか。

そう思うようになったきっかけが、下に挙げた記事。

自分の時間を過ごしている子は、抽象的な思考ができる状態に自然に発達していく - 虹色教室通信

子供は、自由かつ一人で考える時間を与えられると、その中で抽象的な思考が鍛えられるみたいな話だが、

それこそ中学生くらいから、自分のペースで物事を考えられる時間なんて与えられていたのだろうか、という疑念がよぎった。

記事の中で、大人が懇切丁寧に様々なことを教えた子供はテストで良い点を取るが、自分で答えを探す段階になったとき、急に弱くなるという経験談があった。

本の学校は、まさにこの状態で、教えられたことを吸収することに特化されている。

その達成度は、テストで測られるので、つねに吸収に励まなければならない。

ところが、突如、自分の意志による選択を迫られる場面が、人生には何度かある。

特に進路を選ぶ時は、いきなり自分のやりたいことを問われる。

今まで、自分が何をやりたいかとか「こう生きたい」といった意志とは無関係に、学ぶべきこと・やるべきことを決められ、従っていたのに、突然「好きなことをしてごらん」と放り出される。

放り出されたって、自分の意思を持ったことなどないものだから、他人から吹き込まれたり、今までに刷り込まれた知識に沿って判断を下していくことになる。

その知識とは、学校選びでいえば偏差値だったり、誰かが吹聴する校風なるものだったりするわけだ。

そもそも、いつまでに進路を決めなければならない、というタイムリミットも誰かが設定したものだ。

しかし、実際は、別にその期限までに決断を下せなくたって、死ぬわけではない。

(もちろん家庭の事情とかで、選択肢のない場合もあるが)

それでも、何かに追われ、今までに得た、特に根拠のない、自分に合っているかどうかも分からない物差しで自分の将来を決めていく。

 

こういう風に、自分の人生における決断を下そうとしている時、その時間は、本当に「自分の時間」なのだろうか。

他人が決めた時間設定の中で、他人が作った物差しを用いて、自己決定をする。

それは、一見、「僕は○○したい。だから、□□という選択肢を選ぶ」という語りで、自分の意志のように見えるけれど、その過程をコントロールしていたのは自分なのか。

そもそも、自分が選択しなければならないタイミングは今なのか、という問いから、なぜ自分はこの決断を下すのか、という段階まで、全て納得したうえで、物事を進めることができているのだろうか。

 

この国では、基本的にどの選択肢を選んだって、絶望的に不幸になることはあまりない。

一方で、その恵まれた環境が、自分の決断への根拠の強さとか、決断から生じた結果への責任とか、決断を下した自分への信頼とか、そういうことへの意識を曖昧にしているのではないだろうか。

受験期間は、「こんなテストで本当の学力は測れない」とぼやきながら必死に勉強しても、どこかしらの大学に受かってしまえば、「受験勉強もそれなりに役に立っている」とか言い出すのである。

就活だって同じだ。こんなテストや2~3回の面接で本当の人間力は測れないと文句を言いながらも、どこかに受かれば「就活やってよかった」というのである。

 

一応フォローしておくと、これは「転向するな」という話ではない。

転向したといっても、受験や就活が人生にとってプラスに働くというのは、真実だと思う。

ここで言いたいのは、人生をより納得しながら進めることはできないのか、ということだ。

換言すれば、自分が持つ時間の尺度で生きていくことはできないのだろうか。

自分の時間とは、単に一人で何かをするという意味ではなく(もちろんそういう意味で使っても良いのだけど)、自分が生きる時間とその中で下す決断を、自分のものとして納得するための時間だと思う。

 

なぜこういうことを言うかというと、私たちが生きる現代は、色々なことが効率化されすぎていて、自分独自の時間軸をほとんど持つことも適用することもできないまま、誰かが作った画一的な時間の速さで物事が過ぎていくからだ。

その中で、素早く自分の納得できる決断を下す才能がある人もいる。

そういう人は、今までの人生の中で時間を自分のものにしてきたからこそ、意思決定の時間を短縮できているのだろう。

でも、そうじゃない人もいる。

自分の意思決定の過程に入り込んだ他人の思考、乱暴に言えば他人の受け売りを、どこまで批判的に検討し、決断を自分のものにできるかは、他人が決めた期限におびえることなく自分の時間軸で物事を思考できるかにかかっているように思う。

なにも下した決断が独創的である必要はない。

例え、普通と言われるような決断でも、その決断に至る過程を自分でコントロールできていたなら、それはとても立派な選択と言われるべきだろう。

例え、他人に指示されたことをやっていても、自分の疑問が全て解消されていたり、従うべきだと判断していれば、それは自分の時間と呼べるだろう。

他人の時間を生きているとき、それは少しの時間でもその人を疲弊させるし、

逆に、自分の時間を生きているとき、どれだけ長く活動していても精神的な疲労は少ない。

 

元の記事とは、すこしずれた話題になっていると思うが、

最近は、こういうことを思わずにはいられない。

 

自己啓発の時代

時々、自分は何のために頑張ればいいのか分からなくなる時がある。

「時々」といっても、毎回頑張る理由が見つかるわけではなく、その時々でそれらしい理由を取り繕って自分を走らせている。

大学の勉強がこれからの人生でどう役に立つのかは分からないし、かといって就職をゴールにしたとしても、その場所でどう頑張るのかは必ず考えてしまうだろう。

家族のため

お金のため

生きていくため

暇つぶし。

どれも当たっているようで、核心をついていないような。

そもそも、面接で聞かれてそんな答えを返したら誰も僕を採用してくれないだろう。

というわけで、それらしい理由を考えるわけだけど、そのどれもが嘘でもほんとでもないグレーゾーンだ。

 

強いモチベーションはどこから湧いてくるのだろう。

どんな苦しい状況でも頑張りぬけるような

日々前進していることを感じられるようなモチベーションは。

自分を奮起させるような過去なんてなくて、

強烈に具現化させたい未来もなくて、

何にモチベーションを求めるかといえば、結局は自己啓発

15分をSNS上の記事に捧げたり、1000円をビジネス本に溶かしたりして

2~3日分のやる気を買っているのが今の僕。

そこには、華々しい経歴を持つ方々の成功方法が書いてあって、

最後には、結局あきらめず頑張り続ければOKみたいなことを言っていて、

少しの間だけ「そうか、じゃあ僕も頑張ろう」という気持ちになっての繰り返し。

 

どう頑張れば上手くいくかという話は、世の中に無限にあふれているけれど、

なぜ頑張るのかは誰も教えてくれないし、そもそも自分が勝手に手に入れなきゃいけないものだ。

モチベーションがほしいと思って自分の過去をまさぐってみても、今さら、強烈な感情を喚起してくれることなどないし、自己啓発記事と同じくらいの効果しかない。

 

理想の未来のための努力も、なぜその未来が僕にとって理想なのか問われれば特に強い理由なんてなくて、そんな弱い動機で未来を語っていいものかと足踏みしてしまう。

 

信じるべきもの、例えば神様でもいればせっせと修練をつめるのだろうか。

そんなことを本気で言ったら神様に怒られてしまいそうだ。

 

頑張るために必要な好奇心とか素直な気持ちとか、いつどこに置いてきてしまったのだろう。

いつのまにか、なんでもひねくれた目で見るようになってしまっていて、

よくわからないプライドなんかをぶら下げていて、身動きがとれなくなった。

 

とりあえず器用にそれらしい志望理由を書いてしまうのは、いけない気がしてくる。

それでも、きれいに取り繕った文章を送り続ける。

そんな僕の嘘ともホントともつかない感情を、大人は見抜くのだろうか。

 

或いは、書いてしまったことを本当に信じられたらいいのだけど

そこにのめりこめない自分がいる。

自己啓発し続けなければ、前に進めない自分とどう向き合えばいいのだろう。

 

虚無と反抗

留学が終わった。

3年生ということで、僕は就活を始めた。

自分は何をしたいのか、どんな仕事が向いているのか。

 

そんなことを考えだすと、自分には何もないような気がしてくる。

履歴書でアピールすることはたくさんある。

留学して、学生団体もやって、体育会系の寮にいて、インターンもして、学園祭もやって、雑誌を作ったりもした。

でも、自分が本当に何をやりたいかと問われれば、何もでてこない。

全てが「強いて言うなら…」という前置きの下でしか、意味を持たない。

今までの人生で、自分が人生をかけてやっていきたいことなんて見つからなかった。

或いは、あったかもしれない可能性にも目をつむってきたのかもしれない。

他の可能性に目を奪われるうちに、何かを決めなければならなくなった。

 

やりたいことはないけど、とりあえず自立して生きていければ…

と、思うけれど

考えてみれば、特に生きたいわけでもない。

かといって、死にたいわけでもない。

何もない。

僕がいなくたって世界は回る。

何かを強く信じることができたら。

自分の感じたことを強く信じることができたなら、迷いなく前に進めるのに。

きっと迷いですら、前進になるのに。

今の自分は、迷えば迷うほど空っぽになっていく。

自分の体を風が通り抜けていくような感覚。

ほんとは、自分は存在してないんじゃないか。

ただ体だけが、そこに存在していて、高尚な「自分」なんてものは初めからなかったんじゃないか。

 

自分に「なぜ」と問い続けていくと、最終的には無にぶち当たる。

きっと、「なぜ」なんて考えちゃいけないんだ。

どこかで、「なぜ」と問うのをやめて、目の前のことに当たらなきゃいけないんだ。

でも、そんなことをすれば自分の中の大事なものがなくなってしまいそうで怖い。

しかし、その何かを守る価値があるのかと言われれば、それはかなり怪しい。

 

自分を解体して、「やりたいこと」を探し出して、それを御社に見てもらうという作業の中で、なんともいえない敗北感を感じることがある。

就活は負けなのか。

大学に入ってすぐの頃は、確かに負けだと思っていた。

どこかで自分にウソをつかなきゃいけないのに、必死になるのは馬鹿だと思っていた。

「本当にやりたいこと」なんて、本当はないんだろ?

って思っていた。

それでも、なんとなく自分の中を検索して軽く引っかかったことを、「本当」だと熱心に売り込んで。

その茶番感が嫌だったのかもしれない。

 

かといって起業やアカデミズムの道に進むことが正解だと思ったこともない。

自分の中に「本当」の気持ち、本当にやりたいことが芽生えるなんて思ってなかったから。

 

駄々をこねても、人は「やらねばならないこと」が眼前に現れると、それに一生懸命になる。

今の僕もそうだ。

授業以外に特にやることもないし、いずれは自立しなければならないし、だから、仕事を探す。

何かに負けた気がするけれど、何に負けたのかはわからない。

何と勝負をしていて、何が勝ちで何が負けなのか。

守りたかったものが、自分の中の小さな反抗心であるならば、そんなもの捨てて、目前の課題を頑張ればいいのかもしれない。

 

決まり切ったこと、分かり切ったこと、当たり前のこと。

そういうものを全部ぶっ壊してやりたいけど、なんでそうしたいかとか、その後どうするかとか、全くわからない。

「そういう君には、こういう道が…」と言われるのも嫌だ。

付け加えるなら、そういうことを思う高慢な自分も同じくらい嫌だ。

 

つまらない反抗心が、どこへ向かっていくのかは分からない。

目の前のもの全てを馬鹿にして、どこかでのたれ死んでしまうのかもしれないし、

巧妙に隠し通して、「真っ当に」生きていくのかもしれない。

願わくば、どこかで成仏してくれればいいのだけど。