なすの日記

思考を散歩させるための場所

自分の時間 他人の時間

「自分の時間がほしい」と言ってしまうことがよくある。

基本的には、一人で好きに過ごす時間というような意味で使っている。

「自分の時間」というと、その時間は完全に、自分でコントロールできているかのように思える。

でも、本当に自分の時間、プライベートな時間を自分のものにできているのだろうか。

そう思うようになったきっかけが、下に挙げた記事。

自分の時間を過ごしている子は、抽象的な思考ができる状態に自然に発達していく - 虹色教室通信

子供は、自由かつ一人で考える時間を与えられると、その中で抽象的な思考が鍛えられるみたいな話だが、

それこそ中学生くらいから、自分のペースで物事を考えられる時間なんて与えられていたのだろうか、という疑念がよぎった。

記事の中で、大人が懇切丁寧に様々なことを教えた子供はテストで良い点を取るが、自分で答えを探す段階になったとき、急に弱くなるという経験談があった。

本の学校は、まさにこの状態で、教えられたことを吸収することに特化されている。

その達成度は、テストで測られるので、つねに吸収に励まなければならない。

ところが、突如、自分の意志による選択を迫られる場面が、人生には何度かある。

特に進路を選ぶ時は、いきなり自分のやりたいことを問われる。

今まで、自分が何をやりたいかとか「こう生きたい」といった意志とは無関係に、学ぶべきこと・やるべきことを決められ、従っていたのに、突然「好きなことをしてごらん」と放り出される。

放り出されたって、自分の意思を持ったことなどないものだから、他人から吹き込まれたり、今までに刷り込まれた知識に沿って判断を下していくことになる。

その知識とは、学校選びでいえば偏差値だったり、誰かが吹聴する校風なるものだったりするわけだ。

そもそも、いつまでに進路を決めなければならない、というタイムリミットも誰かが設定したものだ。

しかし、実際は、別にその期限までに決断を下せなくたって、死ぬわけではない。

(もちろん家庭の事情とかで、選択肢のない場合もあるが)

それでも、何かに追われ、今までに得た、特に根拠のない、自分に合っているかどうかも分からない物差しで自分の将来を決めていく。

 

こういう風に、自分の人生における決断を下そうとしている時、その時間は、本当に「自分の時間」なのだろうか。

他人が決めた時間設定の中で、他人が作った物差しを用いて、自己決定をする。

それは、一見、「僕は○○したい。だから、□□という選択肢を選ぶ」という語りで、自分の意志のように見えるけれど、その過程をコントロールしていたのは自分なのか。

そもそも、自分が選択しなければならないタイミングは今なのか、という問いから、なぜ自分はこの決断を下すのか、という段階まで、全て納得したうえで、物事を進めることができているのだろうか。

 

この国では、基本的にどの選択肢を選んだって、絶望的に不幸になることはあまりない。

一方で、その恵まれた環境が、自分の決断への根拠の強さとか、決断から生じた結果への責任とか、決断を下した自分への信頼とか、そういうことへの意識を曖昧にしているのではないだろうか。

受験期間は、「こんなテストで本当の学力は測れない」とぼやきながら必死に勉強しても、どこかしらの大学に受かってしまえば、「受験勉強もそれなりに役に立っている」とか言い出すのである。

就活だって同じだ。こんなテストや2~3回の面接で本当の人間力は測れないと文句を言いながらも、どこかに受かれば「就活やってよかった」というのである。

 

一応フォローしておくと、これは「転向するな」という話ではない。

転向したといっても、受験や就活が人生にとってプラスに働くというのは、真実だと思う。

ここで言いたいのは、人生をより納得しながら進めることはできないのか、ということだ。

換言すれば、自分が持つ時間の尺度で生きていくことはできないのだろうか。

自分の時間とは、単に一人で何かをするという意味ではなく(もちろんそういう意味で使っても良いのだけど)、自分が生きる時間とその中で下す決断を、自分のものとして納得するための時間だと思う。

 

なぜこういうことを言うかというと、私たちが生きる現代は、色々なことが効率化されすぎていて、自分独自の時間軸をほとんど持つことも適用することもできないまま、誰かが作った画一的な時間の速さで物事が過ぎていくからだ。

その中で、素早く自分の納得できる決断を下す才能がある人もいる。

そういう人は、今までの人生の中で時間を自分のものにしてきたからこそ、意思決定の時間を短縮できているのだろう。

でも、そうじゃない人もいる。

自分の意思決定の過程に入り込んだ他人の思考、乱暴に言えば他人の受け売りを、どこまで批判的に検討し、決断を自分のものにできるかは、他人が決めた期限におびえることなく自分の時間軸で物事を思考できるかにかかっているように思う。

なにも下した決断が独創的である必要はない。

例え、普通と言われるような決断でも、その決断に至る過程を自分でコントロールできていたなら、それはとても立派な選択と言われるべきだろう。

例え、他人に指示されたことをやっていても、自分の疑問が全て解消されていたり、従うべきだと判断していれば、それは自分の時間と呼べるだろう。

他人の時間を生きているとき、それは少しの時間でもその人を疲弊させるし、

逆に、自分の時間を生きているとき、どれだけ長く活動していても精神的な疲労は少ない。

 

元の記事とは、すこしずれた話題になっていると思うが、

最近は、こういうことを思わずにはいられない。

 

自己啓発の時代

時々、自分は何のために頑張ればいいのか分からなくなる時がある。

「時々」といっても、毎回頑張る理由が見つかるわけではなく、その時々でそれらしい理由を取り繕って自分を走らせている。

大学の勉強がこれからの人生でどう役に立つのかは分からないし、かといって就職をゴールにしたとしても、その場所でどう頑張るのかは必ず考えてしまうだろう。

家族のため

お金のため

生きていくため

暇つぶし。

どれも当たっているようで、核心をついていないような。

そもそも、面接で聞かれてそんな答えを返したら誰も僕を採用してくれないだろう。

というわけで、それらしい理由を考えるわけだけど、そのどれもが嘘でもほんとでもないグレーゾーンだ。

 

強いモチベーションはどこから湧いてくるのだろう。

どんな苦しい状況でも頑張りぬけるような

日々前進していることを感じられるようなモチベーションは。

自分を奮起させるような過去なんてなくて、

強烈に具現化させたい未来もなくて、

何にモチベーションを求めるかといえば、結局は自己啓発

15分をSNS上の記事に捧げたり、1000円をビジネス本に溶かしたりして

2~3日分のやる気を買っているのが今の僕。

そこには、華々しい経歴を持つ方々の成功方法が書いてあって、

最後には、結局あきらめず頑張り続ければOKみたいなことを言っていて、

少しの間だけ「そうか、じゃあ僕も頑張ろう」という気持ちになっての繰り返し。

 

どう頑張れば上手くいくかという話は、世の中に無限にあふれているけれど、

なぜ頑張るのかは誰も教えてくれないし、そもそも自分が勝手に手に入れなきゃいけないものだ。

モチベーションがほしいと思って自分の過去をまさぐってみても、今さら、強烈な感情を喚起してくれることなどないし、自己啓発記事と同じくらいの効果しかない。

 

理想の未来のための努力も、なぜその未来が僕にとって理想なのか問われれば特に強い理由なんてなくて、そんな弱い動機で未来を語っていいものかと足踏みしてしまう。

 

信じるべきもの、例えば神様でもいればせっせと修練をつめるのだろうか。

そんなことを本気で言ったら神様に怒られてしまいそうだ。

 

頑張るために必要な好奇心とか素直な気持ちとか、いつどこに置いてきてしまったのだろう。

いつのまにか、なんでもひねくれた目で見るようになってしまっていて、

よくわからないプライドなんかをぶら下げていて、身動きがとれなくなった。

 

とりあえず器用にそれらしい志望理由を書いてしまうのは、いけない気がしてくる。

それでも、きれいに取り繕った文章を送り続ける。

そんな僕の嘘ともホントともつかない感情を、大人は見抜くのだろうか。

 

或いは、書いてしまったことを本当に信じられたらいいのだけど

そこにのめりこめない自分がいる。

自己啓発し続けなければ、前に進めない自分とどう向き合えばいいのだろう。

 

虚無と反抗

留学が終わった。

3年生ということで、僕は就活を始めた。

自分は何をしたいのか、どんな仕事が向いているのか。

 

そんなことを考えだすと、自分には何もないような気がしてくる。

履歴書でアピールすることはたくさんある。

留学して、学生団体もやって、体育会系の寮にいて、インターンもして、学園祭もやって、雑誌を作ったりもした。

でも、自分が本当に何をやりたいかと問われれば、何もでてこない。

全てが「強いて言うなら…」という前置きの下でしか、意味を持たない。

今までの人生で、自分が人生をかけてやっていきたいことなんて見つからなかった。

或いは、あったかもしれない可能性にも目をつむってきたのかもしれない。

他の可能性に目を奪われるうちに、何かを決めなければならなくなった。

 

やりたいことはないけど、とりあえず自立して生きていければ…

と、思うけれど

考えてみれば、特に生きたいわけでもない。

かといって、死にたいわけでもない。

何もない。

僕がいなくたって世界は回る。

何かを強く信じることができたら。

自分の感じたことを強く信じることができたなら、迷いなく前に進めるのに。

きっと迷いですら、前進になるのに。

今の自分は、迷えば迷うほど空っぽになっていく。

自分の体を風が通り抜けていくような感覚。

ほんとは、自分は存在してないんじゃないか。

ただ体だけが、そこに存在していて、高尚な「自分」なんてものは初めからなかったんじゃないか。

 

自分に「なぜ」と問い続けていくと、最終的には無にぶち当たる。

きっと、「なぜ」なんて考えちゃいけないんだ。

どこかで、「なぜ」と問うのをやめて、目の前のことに当たらなきゃいけないんだ。

でも、そんなことをすれば自分の中の大事なものがなくなってしまいそうで怖い。

しかし、その何かを守る価値があるのかと言われれば、それはかなり怪しい。

 

自分を解体して、「やりたいこと」を探し出して、それを御社に見てもらうという作業の中で、なんともいえない敗北感を感じることがある。

就活は負けなのか。

大学に入ってすぐの頃は、確かに負けだと思っていた。

どこかで自分にウソをつかなきゃいけないのに、必死になるのは馬鹿だと思っていた。

「本当にやりたいこと」なんて、本当はないんだろ?

って思っていた。

それでも、なんとなく自分の中を検索して軽く引っかかったことを、「本当」だと熱心に売り込んで。

その茶番感が嫌だったのかもしれない。

 

かといって起業やアカデミズムの道に進むことが正解だと思ったこともない。

自分の中に「本当」の気持ち、本当にやりたいことが芽生えるなんて思ってなかったから。

 

駄々をこねても、人は「やらねばならないこと」が眼前に現れると、それに一生懸命になる。

今の僕もそうだ。

授業以外に特にやることもないし、いずれは自立しなければならないし、だから、仕事を探す。

何かに負けた気がするけれど、何に負けたのかはわからない。

何と勝負をしていて、何が勝ちで何が負けなのか。

守りたかったものが、自分の中の小さな反抗心であるならば、そんなもの捨てて、目前の課題を頑張ればいいのかもしれない。

 

決まり切ったこと、分かり切ったこと、当たり前のこと。

そういうものを全部ぶっ壊してやりたいけど、なんでそうしたいかとか、その後どうするかとか、全くわからない。

「そういう君には、こういう道が…」と言われるのも嫌だ。

付け加えるなら、そういうことを思う高慢な自分も同じくらい嫌だ。

 

つまらない反抗心が、どこへ向かっていくのかは分からない。

目の前のもの全てを馬鹿にして、どこかでのたれ死んでしまうのかもしれないし、

巧妙に隠し通して、「真っ当に」生きていくのかもしれない。

願わくば、どこかで成仏してくれればいいのだけど。

海外経験の語り方

留学から帰ると必ず、「どうだった?」と聞かれる。

留学というのは、短時間で終わるイベントではなく、数か月から数年に及ぶ生活そのものだから、一言で感想を言うことはできない。

一方で、話を聞く側からすれば、遠い異国での体験や感想を聞きたいと思うのは当然だ。

聞かれる側も留学先で感じたことを語りたいと思うようになる。

 

僕は、その際、どう体験を語るのか、という問いを留学前から持ち続けている。

経験を語る際、大きな軸となるのが留学した「国」だ。

デンマークに行った僕は、よく「デンマークでは~」という語りかたをしてしまう。

僕が言いたいのは、この語り方では、過度な一般化がなされてしまう、ということではない。

 

留学先の体験の語り、もう少し明確に言えば、留学先で感じた問題意識が語られるだけで放置され、聞き手にとっても遠い国の遠い話として終わってはいないか、というのが僕の感じる疑問だ。

デンマークなんか特に福祉やジェンダーなどが絡む文脈で好例として、言及されることが多いけれど、デンマークに行ったことがない人からすれば「へー、すごいねー」で終わってしまう。

それは、ほかのどの国でも同じだ。

海外経験をもとに日本をディスっているだけだと、ただのうざいやつだ。

自分の海外経験を根拠に議論する人がなんとなくむかつくのは、情報量・経験の差に優越感を感じてしまっているからだろう。

相手に同じ経験がない場合、語り手と聞き手には情報量の差という上下関係ができてしまう。

聞き手が質問し、語り手が答えるという一方向的な情報伝達になってしまう。

 

会話を通じて同じ問題意識を共有するには、相手の共感を得ることが必要だと思うけれど、そもそも海外経験とは、異国での体験であって、本来的に共感を得られるものではない。

相手が行ったことのない国の話をした時点で、それはおとぎ話のような遠い世界の話になってしまう。

特に日本人は、ほとんどの場合、日本人に囲まれて育っているから、異文化との距離が非常に遠いのではないかと感じる。

とは言ってもせっかく海外に行って感じたことを、封印してしまうのはもったいない。

自分の経験を元に、自分がもっと幸せに暮らせるようにしたいし、あわよくば、日本という国で幸福を感じる人が増えればよいと思う。

そもそも、海外で感じたことを日本全体に適用したいと思ってしまうのも、日本人の性なのかもしれない。

デンマーク人のように、16時に帰宅する生活をしたいなら、自分がそうできる環境を探して自分が幸せに暮らせばそれでいいはずなのに、なぜか、日本人みなが16時に帰る生活を送れればいいのに、と思い議論し、何とかならないかと思ってしまう。

日本というのは、皆が国益を考えてしまう国なのかもしれない。

 

日本は、外との隔たりを実際以上に強く意識する。

だからこそ、長期間海外に行くことは多大なエネルギーを伴う一大イベントとみなされるし、

そういうメンタリティーは自分を含め、多くの人が無意識のうちに持っていると思う。

だから、逆に海外の経験を日本というフィールドの中で生かし切るのは相当難しいことだと思う。

本気で、海外での経験を日本で生かそうと思うなら、しっかりとした自己理解が欠かせないと思う。

自分が海外で何を良いと感じたのか、それはなぜなのか、その背景には何があるのか。

デンマークではみんなが16時に帰宅していて、日本もそうなれば良いと思った、という語りでは誰も動かないし、聞き手にとっては、想像の及ばない理想郷の話になりかねない。

まあ、飲み会の話題になればいいという考えなら、そこまで考える必要なんてないのだけど、実際、少なくとも自分が抱えている問題意識は他人も同様に抱えていることが多い(労働時間の話とかはまさにそれ)。

だから、やっぱり、海外での経験は自分の中での消化の仕方、そして、語り方によってはもやもやしている人にとって光明になる可能性を持っている。

 

日本における海外経験者の作法みたいなのは、もっと研究されるべきではないか。

 

 

 

創造性の前に

昔から自分には大きい仕事がしたいとか目立ちたい、という欲がある。

世界中を飛び回って、大きなプロジェクトに関わって、新しいアイデアをバンバン生むのだ。

折しも世間では創造性、クリエイティビティといった言葉が流行っていて、

新しいアイデアを効率的に出し、問題解決を図るというのが一つのトレンドになっている。

僕もそういう雰囲気の中で、どうすれば良いアイデアマンになれるのか考えたりするわけだが、最近、少し優先順位が変わりつつある。

 

こっちでインターンをしたりして、少し「仕事」というものに触れてみると、

自分が持っていた創造性へのイメージというのは少し崩れたというか、

創造性を考える前にやることがあるんだと学んだ。

僕の中でクリエイティビティやアイデアといった言葉は魔法の言葉で、

思いつきさえすれば、一気に問題が解決したり、儲かったりするものというイメージがあった。

まあ、そんなわけねえだろ、と言われればそれまでなんだけど、

今の創造性ブームとも言うべき状況を見ると世間一般である程度、魔法の言葉としての「クリエイティビティ」というイメージは共有されているのではないかとおもう。

世の中には「発想法」に関する本やサイトがあふれているし、フェイスブックやアップルのようなシリコンヴァレーのIT企業は、だれも想像し得なかったアイデアザッカーバーグジョブズが思いついたことから始まったようなイメージを持たれている。

 

少し、仕事というものをしてみて感じたのは、確かにアイデアをひねり出すのは大切なことだけど、そのアイデアは実現されなければ意味がない。

創造的なアイデアが実現されるまでに乗り越える道のりはとても地味なものだ。

期限までに、アイデアを分かりやすい文章にまとめて提出し、それを他人にプレゼンする。

プレゼンの前には、構成から字の大きさといったところまで推敲が必要だろう。

関係者とごはんに行ったりして良好な関係を築き、自分のアイデアの実現に協力してもらえるよう、取り計らう必要もある。

イデアが実現されると決まれば、また協力者を募り、具体的な指示を与える必要があるだろう。

お金が必要なら、めんどくさい書類を埋めて期限内に提出し、審査を待たねばならない。

さらに、このアイデアは実現してもそれが成功するかは分からない。

何かを思いついてから実現に至るプロセスは途方もなく長く、地道であり、そして、アイデアは実現されなければインパクトを与えるのは難しい(学説などは別だが)。

 

華々しいエリートサラリーマンや起業家のイメージの裏には、こういう一見地味な行いの積み重ねがあるのだとようやく理解できた。

しかし、一発で成功したかのようなストーリーばかりが流布する今の世の中で、このことに気付くのは実は難しいのではないか。

小さいころから、沢山のサクセスストーリーのハイライトばかりを見せられ、自分も将来、いっぱしの人物になりたいと思ったときに、そのいっぱしの人物が積み上げてきたであろう地味な努力に気付く機会はそうそうない。

 

そういう地道な努力が当たり前にできた上で初めて創造性が価値を持ち始めるのではないかと、最近強く思う。

反省。

僕らの世代

あなたにとって仕事とは何だろうか。

お金を稼ぐための手段か、はたまた自己実現の手段か。

2016年になった今でも、仕事はつらいものだというイメージは変わっていないのかもしれない。

同期が就活するのをみて強くそう感じる。

実際、社会に出て働くということがどの程度過酷なのか僕にはまだわからない。

おそらく、働いたら働いたで楽しいことも沢山あるだろう。

 

それでも、「仕事とは自分の中の何かを犠牲にするもの」であり続けているのではないか。

少なくとも、仕事を探す際には、自分の何を犠牲にできるのか問われている。

あるいは、学生のほうが、仕事を得るために何かを犠牲にすべきだという考えにとらわれて、先回りしているのかもしてない。

なぜ、僕たちは人生の節目で憂鬱にならねばならないのだろう。

学生という守られる一方でたくさんの制限のついた立場から、自分の力で未来を切り開く新たなステージに移行するのだから、その船出をもっと高揚感に満ちたものにできないのだろうか。

考えてみれば、どこを見渡しても不安に満ちている。

 

 

おそらく、日本では、あらゆる選択が「不安」を原動力としてなされているのではないか。

あるいは、世界も同じ状況なのかもしれない。

良い大学に行けないかもしれないという不安

良い就職先を見つけられないかもしれないという不安

昇進できないかもしてないという不安

家族を養育出来なくなるかもしてないという不安

 

とめどない不安に憑りつかれるように、人生の選択を下さざるを得ない状況があるのではないか。

いや、人生の選択だけではない。

ささいな選択にも、不安が関わっている。

資格をとったほうがいい

英語をやったほうがいい

陳腐な表現を借りれば、「したい」ではなく「したほうがいい」「しないとやばい」で全てが回っていく。

僕たちが、ものを考えるスピードよりも圧倒的に早いスピードで世界が回り、選択を迫られる。

自分が何をやりたくて、何に興味があって、何を愛していて、何を美しいと感じて、何を悲しいと感じるのか、

そんなことを考える時間をない。

そんなことを考える時間は無駄だ。

どれだけ天気が良くても、どれだけ美しい景色を発見しても、気になる小道を見つけても、学校や会社に向かい、社会の歯車とならねばならない。

 

歯車となる感覚こそが幸福であると教え込まれてきたのが今までの時代だったのかもしれない。

それは、多くの人が力を合わせ何か一つのことを成し遂げるためだと言われれば必ずしも悪いことではない。

しかし、幸か不幸か僕らの世代は、自由や個性を尊重することが大切だという価値観を浴びて育ってきた。

それは、既存の価値観を混ざり合い、なりたい自分と現実の自分との間にギャップを生み、そのことが常に僕らの世代を疲弊させてきた。

 

これからを生きるのは僕らの世代だ。

既存の価値観に安易に迎合すれば、なにも変わらない。

大人に、そして老人になった僕らは、新たな世代に対して同じ仕打ちをするだろう。

そうなってはならない。

今の社会に安全圏から文句を言うだけではだめだ。

僕らはすぐに年を取り、違和感に鈍感になり、いろんなことをあきらめるようになり、従順になってしまう。

いつしか当事者ではなくなってしまう。

そうなる前に、自ら声をあげ、行動に移さなければならない。

どれだけ逆風が吹こうと、自分たちの世代としての態度・姿勢を示さなければ、後の世代も同じ苦しみを味わうことになるだろう。

堂々と、不安に満ちた今の社会を拒絶し、幸福を追求する姿勢をはっきりと肯定するべきではないか。

 

陰で文句を言うでもなく、世の中を一気にひっくり返そうとするでもなく、

ただ、現実を変えるための努力を積み重ねたい。

中立はただの無関心かも

この前、友達に「お前はいつもニュートラルだ」と言われた。

それは、良い意味でも悪い意味でもないと思うけれども、自分の中でハッとするものがあった。

確かに僕は、常に中立的だ。

誰かがある意見を言えば、反対の立場で論じてみせ、何かを断言することはない。

何かを言い切ってしまうのは怖い。

物事には常に様々な側面があって、それをわかっていることが知性だと思っていた。

それは、あながち間違いではないと思う。

しかし、中立であるだけでは何も始まらないとも思う。

 

どこで見たか忘れたけど、「中立」という言葉のうまい説明がある。

中立とは、争いが起きたときに当事者を仲介するための存在、態度であり、

何も意見を述べなかったり、ただ両論を併記する人は中立ではない、と。

その通りだ、と思った。

 

世界は争いで満ちている。

大きなものから小さなものまで様々だ。

民族間の紛争から、今日何を食べるかまで、生きていればあらゆる場面で意見の対立に出会い、時に自分も立場の表明を求められる。

しかし、日本人は自分の立場を持つことに慣れていない。

公平であることが是とされ、学校でも家庭でも特定の主義主張が推奨されることは少ない。

しかし、「公平」が「意見を持たないこと」と同義になってしまってはいないか。

「公平」とは「聞く耳を持つこと」であり、意見をもたないということではないはずだ。

事実、意見がなければ何もできない。

自分で意見を持たなければ、誰かの意見に従うだけになってしまう。

 

意見を持つということは、誰かと対立するということでもある。

それは、日本人にとって避けるべきものであり、意見を持てない一つの原因かもしれない。

 

しかし、意見を持たないというのは、無関心と同義でもある。

関心を持たなければ、何かに関わり対立を経験する必要もない。

しかし、それでは何も問題は解決しない。

ある現象を「問題である」と認識し、それを自分が「良い」と思う方向に変えていかなければ、世界は何も変わらない。

若いうちは、誰かの大きな意見に流されていればいいというほど鈍感ではないはずだ。

だから、今のうちに意見を持つ癖をつけたい。

どんな小さなことにも自分なりの論理で意見を持ち、対立を恐れないように生きていきたい。

対立は敵対ではないし、自分より優れた論理は素直に受け入れればよいと思う。

それが「公平」ということだろう。

知性は、中立という名の無関心を維持するためではなく、前に進むための意見を持つためにあるべきものだと信じたい。

 

そして、叫ばれるだけの意見は意見とは言えない。

意見に基づいた行動がセットになるべきだ。

意見を持っていたとしてもほとんどの人は、意見を叫ぶだけだ。

その姿は、正直醜いと思う。

全ての出来事に行動を起こせるわけではないかもしれないけれど、

ただ、何かを述べるだけの人間は一番かっこ悪いし信頼もされない。

今はSNSがあるから、そこで何か意見を表明すれば何かをやった気分に簡単に浸れる。

しかし、それは本当にインスタントなもので、

例えば本当に困っている人がいたとしてSNSで救われるかはかなり微妙だ。

SNSはあくまで補助的なツールであり、その力を過大評価してはならないと思う。

 

日本という社会が、意見を持ち、その意見に従って行動に移ろうと思う人に対して寛容で、そんな人を支援できる社会になるために何ができるのだろう。