自己啓発の時代
時々、自分は何のために頑張ればいいのか分からなくなる時がある。
「時々」といっても、毎回頑張る理由が見つかるわけではなく、その時々でそれらしい理由を取り繕って自分を走らせている。
大学の勉強がこれからの人生でどう役に立つのかは分からないし、かといって就職をゴールにしたとしても、その場所でどう頑張るのかは必ず考えてしまうだろう。
家族のため
お金のため
生きていくため
暇つぶし。
どれも当たっているようで、核心をついていないような。
そもそも、面接で聞かれてそんな答えを返したら誰も僕を採用してくれないだろう。
というわけで、それらしい理由を考えるわけだけど、そのどれもが嘘でもほんとでもないグレーゾーンだ。
強いモチベーションはどこから湧いてくるのだろう。
どんな苦しい状況でも頑張りぬけるような
日々前進していることを感じられるようなモチベーションは。
自分を奮起させるような過去なんてなくて、
強烈に具現化させたい未来もなくて、
何にモチベーションを求めるかといえば、結局は自己啓発。
15分をSNS上の記事に捧げたり、1000円をビジネス本に溶かしたりして
2~3日分のやる気を買っているのが今の僕。
そこには、華々しい経歴を持つ方々の成功方法が書いてあって、
最後には、結局あきらめず頑張り続ければOKみたいなことを言っていて、
少しの間だけ「そうか、じゃあ僕も頑張ろう」という気持ちになっての繰り返し。
どう頑張れば上手くいくかという話は、世の中に無限にあふれているけれど、
なぜ頑張るのかは誰も教えてくれないし、そもそも自分が勝手に手に入れなきゃいけないものだ。
モチベーションがほしいと思って自分の過去をまさぐってみても、今さら、強烈な感情を喚起してくれることなどないし、自己啓発記事と同じくらいの効果しかない。
理想の未来のための努力も、なぜその未来が僕にとって理想なのか問われれば特に強い理由なんてなくて、そんな弱い動機で未来を語っていいものかと足踏みしてしまう。
信じるべきもの、例えば神様でもいればせっせと修練をつめるのだろうか。
そんなことを本気で言ったら神様に怒られてしまいそうだ。
頑張るために必要な好奇心とか素直な気持ちとか、いつどこに置いてきてしまったのだろう。
いつのまにか、なんでもひねくれた目で見るようになってしまっていて、
よくわからないプライドなんかをぶら下げていて、身動きがとれなくなった。
とりあえず器用にそれらしい志望理由を書いてしまうのは、いけない気がしてくる。
それでも、きれいに取り繕った文章を送り続ける。
そんな僕の嘘ともホントともつかない感情を、大人は見抜くのだろうか。
或いは、書いてしまったことを本当に信じられたらいいのだけど
そこにのめりこめない自分がいる。
自己啓発し続けなければ、前に進めない自分とどう向き合えばいいのだろう。
虚無と反抗
留学が終わった。
3年生ということで、僕は就活を始めた。
自分は何をしたいのか、どんな仕事が向いているのか。
そんなことを考えだすと、自分には何もないような気がしてくる。
履歴書でアピールすることはたくさんある。
留学して、学生団体もやって、体育会系の寮にいて、インターンもして、学園祭もやって、雑誌を作ったりもした。
でも、自分が本当に何をやりたいかと問われれば、何もでてこない。
全てが「強いて言うなら…」という前置きの下でしか、意味を持たない。
今までの人生で、自分が人生をかけてやっていきたいことなんて見つからなかった。
或いは、あったかもしれない可能性にも目をつむってきたのかもしれない。
他の可能性に目を奪われるうちに、何かを決めなければならなくなった。
やりたいことはないけど、とりあえず自立して生きていければ…
と、思うけれど
考えてみれば、特に生きたいわけでもない。
かといって、死にたいわけでもない。
何もない。
僕がいなくたって世界は回る。
何かを強く信じることができたら。
自分の感じたことを強く信じることができたなら、迷いなく前に進めるのに。
きっと迷いですら、前進になるのに。
今の自分は、迷えば迷うほど空っぽになっていく。
自分の体を風が通り抜けていくような感覚。
ほんとは、自分は存在してないんじゃないか。
ただ体だけが、そこに存在していて、高尚な「自分」なんてものは初めからなかったんじゃないか。
自分に「なぜ」と問い続けていくと、最終的には無にぶち当たる。
きっと、「なぜ」なんて考えちゃいけないんだ。
どこかで、「なぜ」と問うのをやめて、目の前のことに当たらなきゃいけないんだ。
でも、そんなことをすれば自分の中の大事なものがなくなってしまいそうで怖い。
しかし、その何かを守る価値があるのかと言われれば、それはかなり怪しい。
自分を解体して、「やりたいこと」を探し出して、それを御社に見てもらうという作業の中で、なんともいえない敗北感を感じることがある。
就活は負けなのか。
大学に入ってすぐの頃は、確かに負けだと思っていた。
どこかで自分にウソをつかなきゃいけないのに、必死になるのは馬鹿だと思っていた。
「本当にやりたいこと」なんて、本当はないんだろ?
って思っていた。
それでも、なんとなく自分の中を検索して軽く引っかかったことを、「本当」だと熱心に売り込んで。
その茶番感が嫌だったのかもしれない。
かといって起業やアカデミズムの道に進むことが正解だと思ったこともない。
自分の中に「本当」の気持ち、本当にやりたいことが芽生えるなんて思ってなかったから。
駄々をこねても、人は「やらねばならないこと」が眼前に現れると、それに一生懸命になる。
今の僕もそうだ。
授業以外に特にやることもないし、いずれは自立しなければならないし、だから、仕事を探す。
何かに負けた気がするけれど、何に負けたのかはわからない。
何と勝負をしていて、何が勝ちで何が負けなのか。
守りたかったものが、自分の中の小さな反抗心であるならば、そんなもの捨てて、目前の課題を頑張ればいいのかもしれない。
決まり切ったこと、分かり切ったこと、当たり前のこと。
そういうものを全部ぶっ壊してやりたいけど、なんでそうしたいかとか、その後どうするかとか、全くわからない。
「そういう君には、こういう道が…」と言われるのも嫌だ。
付け加えるなら、そういうことを思う高慢な自分も同じくらい嫌だ。
つまらない反抗心が、どこへ向かっていくのかは分からない。
目の前のもの全てを馬鹿にして、どこかでのたれ死んでしまうのかもしれないし、
巧妙に隠し通して、「真っ当に」生きていくのかもしれない。
願わくば、どこかで成仏してくれればいいのだけど。
海外経験の語り方
留学から帰ると必ず、「どうだった?」と聞かれる。
留学というのは、短時間で終わるイベントではなく、数か月から数年に及ぶ生活そのものだから、一言で感想を言うことはできない。
一方で、話を聞く側からすれば、遠い異国での体験や感想を聞きたいと思うのは当然だ。
聞かれる側も留学先で感じたことを語りたいと思うようになる。
僕は、その際、どう体験を語るのか、という問いを留学前から持ち続けている。
経験を語る際、大きな軸となるのが留学した「国」だ。
デンマークに行った僕は、よく「デンマークでは~」という語りかたをしてしまう。
僕が言いたいのは、この語り方では、過度な一般化がなされてしまう、ということではない。
留学先の体験の語り、もう少し明確に言えば、留学先で感じた問題意識が語られるだけで放置され、聞き手にとっても遠い国の遠い話として終わってはいないか、というのが僕の感じる疑問だ。
デンマークなんか特に福祉やジェンダーなどが絡む文脈で好例として、言及されることが多いけれど、デンマークに行ったことがない人からすれば「へー、すごいねー」で終わってしまう。
それは、ほかのどの国でも同じだ。
海外経験をもとに日本をディスっているだけだと、ただのうざいやつだ。
自分の海外経験を根拠に議論する人がなんとなくむかつくのは、情報量・経験の差に優越感を感じてしまっているからだろう。
相手に同じ経験がない場合、語り手と聞き手には情報量の差という上下関係ができてしまう。
聞き手が質問し、語り手が答えるという一方向的な情報伝達になってしまう。
会話を通じて同じ問題意識を共有するには、相手の共感を得ることが必要だと思うけれど、そもそも海外経験とは、異国での体験であって、本来的に共感を得られるものではない。
相手が行ったことのない国の話をした時点で、それはおとぎ話のような遠い世界の話になってしまう。
特に日本人は、ほとんどの場合、日本人に囲まれて育っているから、異文化との距離が非常に遠いのではないかと感じる。
とは言ってもせっかく海外に行って感じたことを、封印してしまうのはもったいない。
自分の経験を元に、自分がもっと幸せに暮らせるようにしたいし、あわよくば、日本という国で幸福を感じる人が増えればよいと思う。
そもそも、海外で感じたことを日本全体に適用したいと思ってしまうのも、日本人の性なのかもしれない。
デンマーク人のように、16時に帰宅する生活をしたいなら、自分がそうできる環境を探して自分が幸せに暮らせばそれでいいはずなのに、なぜか、日本人みなが16時に帰る生活を送れればいいのに、と思い議論し、何とかならないかと思ってしまう。
日本というのは、皆が国益を考えてしまう国なのかもしれない。
日本は、外との隔たりを実際以上に強く意識する。
だからこそ、長期間海外に行くことは多大なエネルギーを伴う一大イベントとみなされるし、
そういうメンタリティーは自分を含め、多くの人が無意識のうちに持っていると思う。
だから、逆に海外の経験を日本というフィールドの中で生かし切るのは相当難しいことだと思う。
本気で、海外での経験を日本で生かそうと思うなら、しっかりとした自己理解が欠かせないと思う。
自分が海外で何を良いと感じたのか、それはなぜなのか、その背景には何があるのか。
デンマークではみんなが16時に帰宅していて、日本もそうなれば良いと思った、という語りでは誰も動かないし、聞き手にとっては、想像の及ばない理想郷の話になりかねない。
まあ、飲み会の話題になればいいという考えなら、そこまで考える必要なんてないのだけど、実際、少なくとも自分が抱えている問題意識は他人も同様に抱えていることが多い(労働時間の話とかはまさにそれ)。
だから、やっぱり、海外での経験は自分の中での消化の仕方、そして、語り方によってはもやもやしている人にとって光明になる可能性を持っている。
日本における海外経験者の作法みたいなのは、もっと研究されるべきではないか。
創造性の前に
昔から自分には大きい仕事がしたいとか目立ちたい、という欲がある。
世界中を飛び回って、大きなプロジェクトに関わって、新しいアイデアをバンバン生むのだ。
折しも世間では創造性、クリエイティビティといった言葉が流行っていて、
新しいアイデアを効率的に出し、問題解決を図るというのが一つのトレンドになっている。
僕もそういう雰囲気の中で、どうすれば良いアイデアマンになれるのか考えたりするわけだが、最近、少し優先順位が変わりつつある。
こっちでインターンをしたりして、少し「仕事」というものに触れてみると、
自分が持っていた創造性へのイメージというのは少し崩れたというか、
創造性を考える前にやることがあるんだと学んだ。
僕の中でクリエイティビティやアイデアといった言葉は魔法の言葉で、
思いつきさえすれば、一気に問題が解決したり、儲かったりするものというイメージがあった。
まあ、そんなわけねえだろ、と言われればそれまでなんだけど、
今の創造性ブームとも言うべき状況を見ると世間一般である程度、魔法の言葉としての「クリエイティビティ」というイメージは共有されているのではないかとおもう。
世の中には「発想法」に関する本やサイトがあふれているし、フェイスブックやアップルのようなシリコンヴァレーのIT企業は、だれも想像し得なかったアイデアをザッカーバーグやジョブズが思いついたことから始まったようなイメージを持たれている。
少し、仕事というものをしてみて感じたのは、確かにアイデアをひねり出すのは大切なことだけど、そのアイデアは実現されなければ意味がない。
創造的なアイデアが実現されるまでに乗り越える道のりはとても地味なものだ。
期限までに、アイデアを分かりやすい文章にまとめて提出し、それを他人にプレゼンする。
プレゼンの前には、構成から字の大きさといったところまで推敲が必要だろう。
関係者とごはんに行ったりして良好な関係を築き、自分のアイデアの実現に協力してもらえるよう、取り計らう必要もある。
アイデアが実現されると決まれば、また協力者を募り、具体的な指示を与える必要があるだろう。
お金が必要なら、めんどくさい書類を埋めて期限内に提出し、審査を待たねばならない。
さらに、このアイデアは実現してもそれが成功するかは分からない。
何かを思いついてから実現に至るプロセスは途方もなく長く、地道であり、そして、アイデアは実現されなければインパクトを与えるのは難しい(学説などは別だが)。
華々しいエリートサラリーマンや起業家のイメージの裏には、こういう一見地味な行いの積み重ねがあるのだとようやく理解できた。
しかし、一発で成功したかのようなストーリーばかりが流布する今の世の中で、このことに気付くのは実は難しいのではないか。
小さいころから、沢山のサクセスストーリーのハイライトばかりを見せられ、自分も将来、いっぱしの人物になりたいと思ったときに、そのいっぱしの人物が積み上げてきたであろう地味な努力に気付く機会はそうそうない。
そういう地道な努力が当たり前にできた上で初めて創造性が価値を持ち始めるのではないかと、最近強く思う。
反省。
僕らの世代
あなたにとって仕事とは何だろうか。
お金を稼ぐための手段か、はたまた自己実現の手段か。
2016年になった今でも、仕事はつらいものだというイメージは変わっていないのかもしれない。
同期が就活するのをみて強くそう感じる。
実際、社会に出て働くということがどの程度過酷なのか僕にはまだわからない。
おそらく、働いたら働いたで楽しいことも沢山あるだろう。
それでも、「仕事とは自分の中の何かを犠牲にするもの」であり続けているのではないか。
少なくとも、仕事を探す際には、自分の何を犠牲にできるのか問われている。
あるいは、学生のほうが、仕事を得るために何かを犠牲にすべきだという考えにとらわれて、先回りしているのかもしてない。
なぜ、僕たちは人生の節目で憂鬱にならねばならないのだろう。
学生という守られる一方でたくさんの制限のついた立場から、自分の力で未来を切り開く新たなステージに移行するのだから、その船出をもっと高揚感に満ちたものにできないのだろうか。
考えてみれば、どこを見渡しても不安に満ちている。
おそらく、日本では、あらゆる選択が「不安」を原動力としてなされているのではないか。
あるいは、世界も同じ状況なのかもしれない。
良い大学に行けないかもしれないという不安
良い就職先を見つけられないかもしれないという不安
昇進できないかもしてないという不安
家族を養育出来なくなるかもしてないという不安
とめどない不安に憑りつかれるように、人生の選択を下さざるを得ない状況があるのではないか。
いや、人生の選択だけではない。
ささいな選択にも、不安が関わっている。
資格をとったほうがいい
英語をやったほうがいい
陳腐な表現を借りれば、「したい」ではなく「したほうがいい」「しないとやばい」で全てが回っていく。
僕たちが、ものを考えるスピードよりも圧倒的に早いスピードで世界が回り、選択を迫られる。
自分が何をやりたくて、何に興味があって、何を愛していて、何を美しいと感じて、何を悲しいと感じるのか、
そんなことを考える時間をない。
そんなことを考える時間は無駄だ。
どれだけ天気が良くても、どれだけ美しい景色を発見しても、気になる小道を見つけても、学校や会社に向かい、社会の歯車とならねばならない。
歯車となる感覚こそが幸福であると教え込まれてきたのが今までの時代だったのかもしれない。
それは、多くの人が力を合わせ何か一つのことを成し遂げるためだと言われれば必ずしも悪いことではない。
しかし、幸か不幸か僕らの世代は、自由や個性を尊重することが大切だという価値観を浴びて育ってきた。
それは、既存の価値観を混ざり合い、なりたい自分と現実の自分との間にギャップを生み、そのことが常に僕らの世代を疲弊させてきた。
これからを生きるのは僕らの世代だ。
既存の価値観に安易に迎合すれば、なにも変わらない。
大人に、そして老人になった僕らは、新たな世代に対して同じ仕打ちをするだろう。
そうなってはならない。
今の社会に安全圏から文句を言うだけではだめだ。
僕らはすぐに年を取り、違和感に鈍感になり、いろんなことをあきらめるようになり、従順になってしまう。
いつしか当事者ではなくなってしまう。
そうなる前に、自ら声をあげ、行動に移さなければならない。
どれだけ逆風が吹こうと、自分たちの世代としての態度・姿勢を示さなければ、後の世代も同じ苦しみを味わうことになるだろう。
堂々と、不安に満ちた今の社会を拒絶し、幸福を追求する姿勢をはっきりと肯定するべきではないか。
陰で文句を言うでもなく、世の中を一気にひっくり返そうとするでもなく、
ただ、現実を変えるための努力を積み重ねたい。
中立はただの無関心かも
この前、友達に「お前はいつもニュートラルだ」と言われた。
それは、良い意味でも悪い意味でもないと思うけれども、自分の中でハッとするものがあった。
確かに僕は、常に中立的だ。
誰かがある意見を言えば、反対の立場で論じてみせ、何かを断言することはない。
何かを言い切ってしまうのは怖い。
物事には常に様々な側面があって、それをわかっていることが知性だと思っていた。
それは、あながち間違いではないと思う。
しかし、中立であるだけでは何も始まらないとも思う。
どこで見たか忘れたけど、「中立」という言葉のうまい説明がある。
中立とは、争いが起きたときに当事者を仲介するための存在、態度であり、
何も意見を述べなかったり、ただ両論を併記する人は中立ではない、と。
その通りだ、と思った。
世界は争いで満ちている。
大きなものから小さなものまで様々だ。
民族間の紛争から、今日何を食べるかまで、生きていればあらゆる場面で意見の対立に出会い、時に自分も立場の表明を求められる。
しかし、日本人は自分の立場を持つことに慣れていない。
公平であることが是とされ、学校でも家庭でも特定の主義主張が推奨されることは少ない。
しかし、「公平」が「意見を持たないこと」と同義になってしまってはいないか。
「公平」とは「聞く耳を持つこと」であり、意見をもたないということではないはずだ。
事実、意見がなければ何もできない。
自分で意見を持たなければ、誰かの意見に従うだけになってしまう。
意見を持つということは、誰かと対立するということでもある。
それは、日本人にとって避けるべきものであり、意見を持てない一つの原因かもしれない。
しかし、意見を持たないというのは、無関心と同義でもある。
関心を持たなければ、何かに関わり対立を経験する必要もない。
しかし、それでは何も問題は解決しない。
ある現象を「問題である」と認識し、それを自分が「良い」と思う方向に変えていかなければ、世界は何も変わらない。
若いうちは、誰かの大きな意見に流されていればいいというほど鈍感ではないはずだ。
だから、今のうちに意見を持つ癖をつけたい。
どんな小さなことにも自分なりの論理で意見を持ち、対立を恐れないように生きていきたい。
対立は敵対ではないし、自分より優れた論理は素直に受け入れればよいと思う。
それが「公平」ということだろう。
知性は、中立という名の無関心を維持するためではなく、前に進むための意見を持つためにあるべきものだと信じたい。
そして、叫ばれるだけの意見は意見とは言えない。
意見に基づいた行動がセットになるべきだ。
意見を持っていたとしてもほとんどの人は、意見を叫ぶだけだ。
その姿は、正直醜いと思う。
全ての出来事に行動を起こせるわけではないかもしれないけれど、
ただ、何かを述べるだけの人間は一番かっこ悪いし信頼もされない。
今はSNSがあるから、そこで何か意見を表明すれば何かをやった気分に簡単に浸れる。
しかし、それは本当にインスタントなもので、
例えば本当に困っている人がいたとしてSNSで救われるかはかなり微妙だ。
SNSはあくまで補助的なツールであり、その力を過大評価してはならないと思う。
日本という社会が、意見を持ち、その意見に従って行動に移ろうと思う人に対して寛容で、そんな人を支援できる社会になるために何ができるのだろう。
授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみた。
先週、授業をさぼってしまった。
寝坊したわけではない。
いじめられているわけでもない。
体調も悪くなかった。
ただ、「行けない」と思った。
「行けない、とは何事だ!お前が怠惰なだけだろ!」
いや、その通りである。
「親はお前の大学にいくら払ってると思ってるんだ!」
いやはや、まったく返す言葉がない。
しかし、その日、体は頑として動かなかった。
僕は授業が苦手である。
話をずっと聞いているのが苦痛で、いつも気持は別の世界へ飛んでいく。
ディスカッションがあったとしても、それは、話し合いのための話し合いのようなきがして、気持が入らない。
日本でも授業をさぼりがちだった。
最初の頃は、「授業より意味のあることたくさんあるっしょ!!!」という
若気の至り的マインドでさぼっていたのだけど
最近は、授業をさぼったとしても大したことをしていないのに気づき、さぼりに罪悪感を感じるようになった。
そして、何度も「今日こそは…」と思い、教室に向かうけれども
身は入らないのであった。
デンマークに来てからはわりと頑張って授業に行っていたのだけど、
授業を楽しめるようになったわけではなく、ただ行っているだけだった。
そして、先週、ついに再び気持がぷっつり切れてしまった。
せっかくなら、自分が授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみよう、と思い立った。
役に立ったのは、『未来のイノベーターはどう育つか』という本だった。
以前は、僕もとんがっていたので「イノベーション」とか「クリエーティブ」と名のつく本は全部胡散臭いと思って一蹴していたけれど、最近は丸くなったようで、たまたま創造性教育という言葉を耳にし、この本を買ってみることにした。
読み進めると、この本には僕が授業に行きたくない理由、逆に言えば、授業に行かずに何をしたかったのか、という問いへの答えが書かれていた気がするので、参考にしつつ自分の意見を書いてみようと思う。
まず、最もピンときたのは、「今の若者は、外的なインセンティブではなく内的なモチベーションで動く」という言葉だ。
学位の取得は、一流企業に入るために必要な前提と考えられており、だからこそ今でも多くの人が少しでも良い学歴を得ようと努力する。
人々が一流企業に入って得たいものは、名声であり、良い給料であり、安定した生活だった。
これらのものは、今でも価値を失ってはいない。
しかし、今の若者の価値観とは少しずれ始めているのではないかと思う。
僕らの世代は、建前上、「自分のやりたいことをやるのが一番」という価値観の中で育ってきた。
一方で、本当に自由にやらせてもらえた人というのは少なく、「安定した生活」という古い価値観も同時に強く刷り込まれてきた。
メディアでは、自分の生きたいように生きる型破りな人間が取り上げられ、そういう人たちがかっこいいと思っているのに、実際にそんなに自由に生きられる人間は少ない。
なぜかと問われれば、今の若者(すくなくとも僕)の中には新しい価値観と古い価値観が同居し、世の中もまだ古い価値観に従って動いている。そんな世界になんとなく流される中で、ゆっくり時間を取って自分が情熱を注いで打ち込めるものを見つけられずにいるからかもしれない。
『未来のイノベーターはどう育つか』の中では、子供時代から自分の熱中したいことに好きなだけ熱中することのできた人々が紹介されている。
彼らは、その中で自分の進むべき道を見つけ、お金や名声ではない内的なモチベーションに従って生きている。
問題は、子供ではなくなってしまった人たちは、どうすれば何か熱中するものを見つけ、内的なモチベーションに従って行動することができるか、ということだ。
少なくとも、今の大学のシステムは若者の内的なモチベーションを支援したり喚起するためのシステムを構築できていない(もちろん、運よく良い教授、授業にであうことはあるだろうが)。
価値観の過渡期の中で生きている今の若者たちは、内的なモチベーションに基づき何かをしたいと思いながら、どうすればモチベーションを喚起できるのか、何に対してなら情熱を持ち得るのか分からないまま、とりあえず既存のレールに乗り、日々の業務をこなしていくことになる。
自分のやりたいことは、高校に受かってから考えよう!
いや、やっぱり大学受験で忙しいから、大学に入ってから考えよう!
いや、やっぱり就活と単位を取るので忙しいから社会人になってから考えよう!
いや、若手の内はやることが多くて考える時間がないから、もっと高いポジションになって余裕が出てから考えよう!
と決断を先延ばしにしているうちに人は老いる。
どこかで自分の中のパラダイムと向き合い、考え方を変えていかなければならない。
ここで、授業の話に戻せば、大学の授業は確かに「興味深い」かもしれない。
しかし、その情報の多くはネット上や書籍で手に入るものだ。
ディスカッションだって、評価されるためのディスカッションには意味を見いだせない。
自分がなんのために、今、先生の話を聞き、他の生徒と話し合っているのかできるだけ明確であってほしい。
そして、それらは単位取得のために存在する茶番ではなく、実際に社会に関わるものであってほしい。
大学は「社会にはこんな問題がある」という知識を教えるのではなく、「問題にどうアプローチするか」という一連の過程を経験できる場であってほしい。
そして、社会に出てからは難しいであろう失敗をたくさん経験できる場であってほしい。
自分の話をすれば、「内的なモチベーションにしたがって何かをしたい」という思いをずっと抱えていながら、情熱を傾ける対象を探すためのチャレンジを怠っていたと思う。
授業には意味を見いだせないから行きたくないけど、かといって何かに打ち込むわけではないという思考停止の状態にあったのだ。
いろんなことにトライし、打ち込んでみて、目的意識を持てるようになれば、大学との付き合い方も少し変わってくるだろう。
まあしかし、ちゃんとした理由を持っていたってそれは怠惰と紙一重なのは間違いない。
冒頭に述べたように、自分が親の金で大学に通っているのもまぎれもない事実だ。
壮大な言い訳をかましたので来週からはちゃんと授業を受けよう…