海外経験の語り方
留学から帰ると必ず、「どうだった?」と聞かれる。
留学というのは、短時間で終わるイベントではなく、数か月から数年に及ぶ生活そのものだから、一言で感想を言うことはできない。
一方で、話を聞く側からすれば、遠い異国での体験や感想を聞きたいと思うのは当然だ。
聞かれる側も留学先で感じたことを語りたいと思うようになる。
僕は、その際、どう体験を語るのか、という問いを留学前から持ち続けている。
経験を語る際、大きな軸となるのが留学した「国」だ。
デンマークに行った僕は、よく「デンマークでは~」という語りかたをしてしまう。
僕が言いたいのは、この語り方では、過度な一般化がなされてしまう、ということではない。
留学先の体験の語り、もう少し明確に言えば、留学先で感じた問題意識が語られるだけで放置され、聞き手にとっても遠い国の遠い話として終わってはいないか、というのが僕の感じる疑問だ。
デンマークなんか特に福祉やジェンダーなどが絡む文脈で好例として、言及されることが多いけれど、デンマークに行ったことがない人からすれば「へー、すごいねー」で終わってしまう。
それは、ほかのどの国でも同じだ。
海外経験をもとに日本をディスっているだけだと、ただのうざいやつだ。
自分の海外経験を根拠に議論する人がなんとなくむかつくのは、情報量・経験の差に優越感を感じてしまっているからだろう。
相手に同じ経験がない場合、語り手と聞き手には情報量の差という上下関係ができてしまう。
聞き手が質問し、語り手が答えるという一方向的な情報伝達になってしまう。
会話を通じて同じ問題意識を共有するには、相手の共感を得ることが必要だと思うけれど、そもそも海外経験とは、異国での体験であって、本来的に共感を得られるものではない。
相手が行ったことのない国の話をした時点で、それはおとぎ話のような遠い世界の話になってしまう。
特に日本人は、ほとんどの場合、日本人に囲まれて育っているから、異文化との距離が非常に遠いのではないかと感じる。
とは言ってもせっかく海外に行って感じたことを、封印してしまうのはもったいない。
自分の経験を元に、自分がもっと幸せに暮らせるようにしたいし、あわよくば、日本という国で幸福を感じる人が増えればよいと思う。
そもそも、海外で感じたことを日本全体に適用したいと思ってしまうのも、日本人の性なのかもしれない。
デンマーク人のように、16時に帰宅する生活をしたいなら、自分がそうできる環境を探して自分が幸せに暮らせばそれでいいはずなのに、なぜか、日本人みなが16時に帰る生活を送れればいいのに、と思い議論し、何とかならないかと思ってしまう。
日本というのは、皆が国益を考えてしまう国なのかもしれない。
日本は、外との隔たりを実際以上に強く意識する。
だからこそ、長期間海外に行くことは多大なエネルギーを伴う一大イベントとみなされるし、
そういうメンタリティーは自分を含め、多くの人が無意識のうちに持っていると思う。
だから、逆に海外の経験を日本というフィールドの中で生かし切るのは相当難しいことだと思う。
本気で、海外での経験を日本で生かそうと思うなら、しっかりとした自己理解が欠かせないと思う。
自分が海外で何を良いと感じたのか、それはなぜなのか、その背景には何があるのか。
デンマークではみんなが16時に帰宅していて、日本もそうなれば良いと思った、という語りでは誰も動かないし、聞き手にとっては、想像の及ばない理想郷の話になりかねない。
まあ、飲み会の話題になればいいという考えなら、そこまで考える必要なんてないのだけど、実際、少なくとも自分が抱えている問題意識は他人も同様に抱えていることが多い(労働時間の話とかはまさにそれ)。
だから、やっぱり、海外での経験は自分の中での消化の仕方、そして、語り方によってはもやもやしている人にとって光明になる可能性を持っている。
日本における海外経験者の作法みたいなのは、もっと研究されるべきではないか。
創造性の前に
昔から自分には大きい仕事がしたいとか目立ちたい、という欲がある。
世界中を飛び回って、大きなプロジェクトに関わって、新しいアイデアをバンバン生むのだ。
折しも世間では創造性、クリエイティビティといった言葉が流行っていて、
新しいアイデアを効率的に出し、問題解決を図るというのが一つのトレンドになっている。
僕もそういう雰囲気の中で、どうすれば良いアイデアマンになれるのか考えたりするわけだが、最近、少し優先順位が変わりつつある。
こっちでインターンをしたりして、少し「仕事」というものに触れてみると、
自分が持っていた創造性へのイメージというのは少し崩れたというか、
創造性を考える前にやることがあるんだと学んだ。
僕の中でクリエイティビティやアイデアといった言葉は魔法の言葉で、
思いつきさえすれば、一気に問題が解決したり、儲かったりするものというイメージがあった。
まあ、そんなわけねえだろ、と言われればそれまでなんだけど、
今の創造性ブームとも言うべき状況を見ると世間一般である程度、魔法の言葉としての「クリエイティビティ」というイメージは共有されているのではないかとおもう。
世の中には「発想法」に関する本やサイトがあふれているし、フェイスブックやアップルのようなシリコンヴァレーのIT企業は、だれも想像し得なかったアイデアをザッカーバーグやジョブズが思いついたことから始まったようなイメージを持たれている。
少し、仕事というものをしてみて感じたのは、確かにアイデアをひねり出すのは大切なことだけど、そのアイデアは実現されなければ意味がない。
創造的なアイデアが実現されるまでに乗り越える道のりはとても地味なものだ。
期限までに、アイデアを分かりやすい文章にまとめて提出し、それを他人にプレゼンする。
プレゼンの前には、構成から字の大きさといったところまで推敲が必要だろう。
関係者とごはんに行ったりして良好な関係を築き、自分のアイデアの実現に協力してもらえるよう、取り計らう必要もある。
アイデアが実現されると決まれば、また協力者を募り、具体的な指示を与える必要があるだろう。
お金が必要なら、めんどくさい書類を埋めて期限内に提出し、審査を待たねばならない。
さらに、このアイデアは実現してもそれが成功するかは分からない。
何かを思いついてから実現に至るプロセスは途方もなく長く、地道であり、そして、アイデアは実現されなければインパクトを与えるのは難しい(学説などは別だが)。
華々しいエリートサラリーマンや起業家のイメージの裏には、こういう一見地味な行いの積み重ねがあるのだとようやく理解できた。
しかし、一発で成功したかのようなストーリーばかりが流布する今の世の中で、このことに気付くのは実は難しいのではないか。
小さいころから、沢山のサクセスストーリーのハイライトばかりを見せられ、自分も将来、いっぱしの人物になりたいと思ったときに、そのいっぱしの人物が積み上げてきたであろう地味な努力に気付く機会はそうそうない。
そういう地道な努力が当たり前にできた上で初めて創造性が価値を持ち始めるのではないかと、最近強く思う。
反省。
僕らの世代
あなたにとって仕事とは何だろうか。
お金を稼ぐための手段か、はたまた自己実現の手段か。
2016年になった今でも、仕事はつらいものだというイメージは変わっていないのかもしれない。
同期が就活するのをみて強くそう感じる。
実際、社会に出て働くということがどの程度過酷なのか僕にはまだわからない。
おそらく、働いたら働いたで楽しいことも沢山あるだろう。
それでも、「仕事とは自分の中の何かを犠牲にするもの」であり続けているのではないか。
少なくとも、仕事を探す際には、自分の何を犠牲にできるのか問われている。
あるいは、学生のほうが、仕事を得るために何かを犠牲にすべきだという考えにとらわれて、先回りしているのかもしてない。
なぜ、僕たちは人生の節目で憂鬱にならねばならないのだろう。
学生という守られる一方でたくさんの制限のついた立場から、自分の力で未来を切り開く新たなステージに移行するのだから、その船出をもっと高揚感に満ちたものにできないのだろうか。
考えてみれば、どこを見渡しても不安に満ちている。
おそらく、日本では、あらゆる選択が「不安」を原動力としてなされているのではないか。
あるいは、世界も同じ状況なのかもしれない。
良い大学に行けないかもしれないという不安
良い就職先を見つけられないかもしれないという不安
昇進できないかもしてないという不安
家族を養育出来なくなるかもしてないという不安
とめどない不安に憑りつかれるように、人生の選択を下さざるを得ない状況があるのではないか。
いや、人生の選択だけではない。
ささいな選択にも、不安が関わっている。
資格をとったほうがいい
英語をやったほうがいい
陳腐な表現を借りれば、「したい」ではなく「したほうがいい」「しないとやばい」で全てが回っていく。
僕たちが、ものを考えるスピードよりも圧倒的に早いスピードで世界が回り、選択を迫られる。
自分が何をやりたくて、何に興味があって、何を愛していて、何を美しいと感じて、何を悲しいと感じるのか、
そんなことを考える時間をない。
そんなことを考える時間は無駄だ。
どれだけ天気が良くても、どれだけ美しい景色を発見しても、気になる小道を見つけても、学校や会社に向かい、社会の歯車とならねばならない。
歯車となる感覚こそが幸福であると教え込まれてきたのが今までの時代だったのかもしれない。
それは、多くの人が力を合わせ何か一つのことを成し遂げるためだと言われれば必ずしも悪いことではない。
しかし、幸か不幸か僕らの世代は、自由や個性を尊重することが大切だという価値観を浴びて育ってきた。
それは、既存の価値観を混ざり合い、なりたい自分と現実の自分との間にギャップを生み、そのことが常に僕らの世代を疲弊させてきた。
これからを生きるのは僕らの世代だ。
既存の価値観に安易に迎合すれば、なにも変わらない。
大人に、そして老人になった僕らは、新たな世代に対して同じ仕打ちをするだろう。
そうなってはならない。
今の社会に安全圏から文句を言うだけではだめだ。
僕らはすぐに年を取り、違和感に鈍感になり、いろんなことをあきらめるようになり、従順になってしまう。
いつしか当事者ではなくなってしまう。
そうなる前に、自ら声をあげ、行動に移さなければならない。
どれだけ逆風が吹こうと、自分たちの世代としての態度・姿勢を示さなければ、後の世代も同じ苦しみを味わうことになるだろう。
堂々と、不安に満ちた今の社会を拒絶し、幸福を追求する姿勢をはっきりと肯定するべきではないか。
陰で文句を言うでもなく、世の中を一気にひっくり返そうとするでもなく、
ただ、現実を変えるための努力を積み重ねたい。
中立はただの無関心かも
この前、友達に「お前はいつもニュートラルだ」と言われた。
それは、良い意味でも悪い意味でもないと思うけれども、自分の中でハッとするものがあった。
確かに僕は、常に中立的だ。
誰かがある意見を言えば、反対の立場で論じてみせ、何かを断言することはない。
何かを言い切ってしまうのは怖い。
物事には常に様々な側面があって、それをわかっていることが知性だと思っていた。
それは、あながち間違いではないと思う。
しかし、中立であるだけでは何も始まらないとも思う。
どこで見たか忘れたけど、「中立」という言葉のうまい説明がある。
中立とは、争いが起きたときに当事者を仲介するための存在、態度であり、
何も意見を述べなかったり、ただ両論を併記する人は中立ではない、と。
その通りだ、と思った。
世界は争いで満ちている。
大きなものから小さなものまで様々だ。
民族間の紛争から、今日何を食べるかまで、生きていればあらゆる場面で意見の対立に出会い、時に自分も立場の表明を求められる。
しかし、日本人は自分の立場を持つことに慣れていない。
公平であることが是とされ、学校でも家庭でも特定の主義主張が推奨されることは少ない。
しかし、「公平」が「意見を持たないこと」と同義になってしまってはいないか。
「公平」とは「聞く耳を持つこと」であり、意見をもたないということではないはずだ。
事実、意見がなければ何もできない。
自分で意見を持たなければ、誰かの意見に従うだけになってしまう。
意見を持つということは、誰かと対立するということでもある。
それは、日本人にとって避けるべきものであり、意見を持てない一つの原因かもしれない。
しかし、意見を持たないというのは、無関心と同義でもある。
関心を持たなければ、何かに関わり対立を経験する必要もない。
しかし、それでは何も問題は解決しない。
ある現象を「問題である」と認識し、それを自分が「良い」と思う方向に変えていかなければ、世界は何も変わらない。
若いうちは、誰かの大きな意見に流されていればいいというほど鈍感ではないはずだ。
だから、今のうちに意見を持つ癖をつけたい。
どんな小さなことにも自分なりの論理で意見を持ち、対立を恐れないように生きていきたい。
対立は敵対ではないし、自分より優れた論理は素直に受け入れればよいと思う。
それが「公平」ということだろう。
知性は、中立という名の無関心を維持するためではなく、前に進むための意見を持つためにあるべきものだと信じたい。
そして、叫ばれるだけの意見は意見とは言えない。
意見に基づいた行動がセットになるべきだ。
意見を持っていたとしてもほとんどの人は、意見を叫ぶだけだ。
その姿は、正直醜いと思う。
全ての出来事に行動を起こせるわけではないかもしれないけれど、
ただ、何かを述べるだけの人間は一番かっこ悪いし信頼もされない。
今はSNSがあるから、そこで何か意見を表明すれば何かをやった気分に簡単に浸れる。
しかし、それは本当にインスタントなもので、
例えば本当に困っている人がいたとしてSNSで救われるかはかなり微妙だ。
SNSはあくまで補助的なツールであり、その力を過大評価してはならないと思う。
日本という社会が、意見を持ち、その意見に従って行動に移ろうと思う人に対して寛容で、そんな人を支援できる社会になるために何ができるのだろう。
授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみた。
先週、授業をさぼってしまった。
寝坊したわけではない。
いじめられているわけでもない。
体調も悪くなかった。
ただ、「行けない」と思った。
「行けない、とは何事だ!お前が怠惰なだけだろ!」
いや、その通りである。
「親はお前の大学にいくら払ってると思ってるんだ!」
いやはや、まったく返す言葉がない。
しかし、その日、体は頑として動かなかった。
僕は授業が苦手である。
話をずっと聞いているのが苦痛で、いつも気持は別の世界へ飛んでいく。
ディスカッションがあったとしても、それは、話し合いのための話し合いのようなきがして、気持が入らない。
日本でも授業をさぼりがちだった。
最初の頃は、「授業より意味のあることたくさんあるっしょ!!!」という
若気の至り的マインドでさぼっていたのだけど
最近は、授業をさぼったとしても大したことをしていないのに気づき、さぼりに罪悪感を感じるようになった。
そして、何度も「今日こそは…」と思い、教室に向かうけれども
身は入らないのであった。
デンマークに来てからはわりと頑張って授業に行っていたのだけど、
授業を楽しめるようになったわけではなく、ただ行っているだけだった。
そして、先週、ついに再び気持がぷっつり切れてしまった。
せっかくなら、自分が授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみよう、と思い立った。
役に立ったのは、『未来のイノベーターはどう育つか』という本だった。
以前は、僕もとんがっていたので「イノベーション」とか「クリエーティブ」と名のつく本は全部胡散臭いと思って一蹴していたけれど、最近は丸くなったようで、たまたま創造性教育という言葉を耳にし、この本を買ってみることにした。
読み進めると、この本には僕が授業に行きたくない理由、逆に言えば、授業に行かずに何をしたかったのか、という問いへの答えが書かれていた気がするので、参考にしつつ自分の意見を書いてみようと思う。
まず、最もピンときたのは、「今の若者は、外的なインセンティブではなく内的なモチベーションで動く」という言葉だ。
学位の取得は、一流企業に入るために必要な前提と考えられており、だからこそ今でも多くの人が少しでも良い学歴を得ようと努力する。
人々が一流企業に入って得たいものは、名声であり、良い給料であり、安定した生活だった。
これらのものは、今でも価値を失ってはいない。
しかし、今の若者の価値観とは少しずれ始めているのではないかと思う。
僕らの世代は、建前上、「自分のやりたいことをやるのが一番」という価値観の中で育ってきた。
一方で、本当に自由にやらせてもらえた人というのは少なく、「安定した生活」という古い価値観も同時に強く刷り込まれてきた。
メディアでは、自分の生きたいように生きる型破りな人間が取り上げられ、そういう人たちがかっこいいと思っているのに、実際にそんなに自由に生きられる人間は少ない。
なぜかと問われれば、今の若者(すくなくとも僕)の中には新しい価値観と古い価値観が同居し、世の中もまだ古い価値観に従って動いている。そんな世界になんとなく流される中で、ゆっくり時間を取って自分が情熱を注いで打ち込めるものを見つけられずにいるからかもしれない。
『未来のイノベーターはどう育つか』の中では、子供時代から自分の熱中したいことに好きなだけ熱中することのできた人々が紹介されている。
彼らは、その中で自分の進むべき道を見つけ、お金や名声ではない内的なモチベーションに従って生きている。
問題は、子供ではなくなってしまった人たちは、どうすれば何か熱中するものを見つけ、内的なモチベーションに従って行動することができるか、ということだ。
少なくとも、今の大学のシステムは若者の内的なモチベーションを支援したり喚起するためのシステムを構築できていない(もちろん、運よく良い教授、授業にであうことはあるだろうが)。
価値観の過渡期の中で生きている今の若者たちは、内的なモチベーションに基づき何かをしたいと思いながら、どうすればモチベーションを喚起できるのか、何に対してなら情熱を持ち得るのか分からないまま、とりあえず既存のレールに乗り、日々の業務をこなしていくことになる。
自分のやりたいことは、高校に受かってから考えよう!
いや、やっぱり大学受験で忙しいから、大学に入ってから考えよう!
いや、やっぱり就活と単位を取るので忙しいから社会人になってから考えよう!
いや、若手の内はやることが多くて考える時間がないから、もっと高いポジションになって余裕が出てから考えよう!
と決断を先延ばしにしているうちに人は老いる。
どこかで自分の中のパラダイムと向き合い、考え方を変えていかなければならない。
ここで、授業の話に戻せば、大学の授業は確かに「興味深い」かもしれない。
しかし、その情報の多くはネット上や書籍で手に入るものだ。
ディスカッションだって、評価されるためのディスカッションには意味を見いだせない。
自分がなんのために、今、先生の話を聞き、他の生徒と話し合っているのかできるだけ明確であってほしい。
そして、それらは単位取得のために存在する茶番ではなく、実際に社会に関わるものであってほしい。
大学は「社会にはこんな問題がある」という知識を教えるのではなく、「問題にどうアプローチするか」という一連の過程を経験できる場であってほしい。
そして、社会に出てからは難しいであろう失敗をたくさん経験できる場であってほしい。
自分の話をすれば、「内的なモチベーションにしたがって何かをしたい」という思いをずっと抱えていながら、情熱を傾ける対象を探すためのチャレンジを怠っていたと思う。
授業には意味を見いだせないから行きたくないけど、かといって何かに打ち込むわけではないという思考停止の状態にあったのだ。
いろんなことにトライし、打ち込んでみて、目的意識を持てるようになれば、大学との付き合い方も少し変わってくるだろう。
まあしかし、ちゃんとした理由を持っていたってそれは怠惰と紙一重なのは間違いない。
冒頭に述べたように、自分が親の金で大学に通っているのもまぎれもない事実だ。
壮大な言い訳をかましたので来週からはちゃんと授業を受けよう…
デンマーク最古の町から -塔の上で見えたもの-
旅行の目的地というのは大概、大きな都市か景勝地である。
特に海外にいて地方の町に行く機会はなかなかない。
先日、同じフラットの友人に連れられるがままにデンマークの田舎を訪れた。
町の名は「リーベ(Ribe)」。
調べてみると、デンマーク最古の都市であり、紀元800年ころから町が存在したらしい。
とはいっても、ついぞ聞いたことのない町である。
デンマークに半年以上暮らしても、その名を耳にすることはなかった。
人口は約8000人。
昔、10年ほど人口4000人ほどの町に暮らしていた。
リーベの町はその規模感に似ていた。
町にくり出したとき、天気は快晴だった。
デンマークの冬は曇ることが多いけれど、晴れるときはとことん晴れる。
山と高い建物がないから空が広い。
首都コペンハーゲンですらそう感じさせるのだから、田舎などなおさらだ。
リーベの町の真ん中には大きな聖堂がある。
リーベ大聖堂は12世紀初頭に建設が始まり、13世紀末には60mほどの塔が完成した。
この塔が長らくデンマークで最も高い建物だったらしい。
塔には上ることができる。
長く狭い階段を上がっていくと頂上にたどり着く。
上から見る景色は想像以上に素晴らしかった。
視界を遮るものが何もない。
見渡す限りの田園風景だ。
美しい景色はしばしば人を麻痺させる。
目の前の風景を見て、その素晴らしさを伝えたいのだけど
そこに言葉を当てはめることすら野暮なように思えてくる。
それでも何かを述べてみようとするのは僕の性なのだろう。
人工の美しさと風景の美しさは、そこから受ける感動が少し違う。
どちらが優れているというわけではない。
そこで「やはり自然のほうが美しい」という陳腐な言葉を言ってのけられるほど僕は素直ではない。
ただ、人間の作り出した美しさには「意志」がある。
一方で、自然には「意志」がない。
人工物は何かの目的のために存在しているが、自然は違う。
ただ、そこにあるのだ。
私たちに美しい物を見せようとするわけでもなくただそこにある。
それを人間が勝手に美しいと感じるだけなのだ。
人間として生きる以上、「ただ存在する」というのは不可能に近い。
常に何かのために思考し、行動する。
それが個人的な動機だろうと他者のためであろうと意図を意識せずに存在することは難しい。
ただ、自然を感じるとき、人間にも「ただ存在する」ということが許されるような気がする。
同じようなことをアイスランドでも感じた。
僕たちは常に目的や意図をもっていて、それは人として生きる上で大切なことだ。
というより、目的や意図への自覚こそが人を人足らしめるのかもしれないとさえ思う。
しかし、常に目的を達成できるわけではないし、常にうまくいくわけではない。
そんな時、自然は僕を否定も肯定もしない。
何も言わない。今も昔もこれからも。
それは、僕にとって救いだ。
ただ、なんの目的も意図も価値もなく存在していていいのだ、と思わせてくれる。
ある意味で、それは僕に対する肯定なのだ。
いざというときは、すべて投げ出して旅に出たっていいのだ。
それを確認した時、僕は再び日常へと帰っていくことができる。
そうして、自然に対して解釈を加えてしまうことそのものが人間の悲しい性なのだろう。
自然と一体になることはできない。
常に自然と自分との間に違和感を感じ、時には自然を壊し、時には接近してみたりする。
同じようなことを昔の人も感じたのだろうか。
700年前に大聖堂の塔に上った人たちは何を感じたのだろうか。
見渡す限りの平原、地平線の先に好奇心を喚起されたのか、あまりの広大さに呆然としたのか。
見下ろすと、田畑の中に道路があり、車が走っている。
700年前の人は見なかった景色だ。
一瞬、邪魔に思えたけれど、僕が2016年を生きているからこそ見えた景色だ。
そう思うとなんだか素敵なものに思えてきた。
自分たちの息子や娘はどんな景色を見るのだろう。
車は空を飛んでいるだろうか。吹く風は同じだろうか。
ふと、自分に子供ができたらここに来てほしいと思った。
自分とは違う景色を同じ場所から眺めてほしいと。
一人の人生はたかだか80年だけれど、別の誰かが同じ場所から景色を見渡し、何かを感じてくれるのなら、それはそれでいいかもしれないと思える。
同じように、僕は700年前かある場所から700年前とは少し違う景色を見たのだ。
ただの妄想と言ってしまえばそれまでだけど、そういう感慨に浸れるのは人間の特権なのかもしれない。
逸脱者たちへ
またテロが起こってしまった。
たくさんの悲しみと憎しみが渦巻くのを目の当たりにしても、何もできない無力感が襲う。
パリの時と同様、多くの人が連帯を表明した。
「私たちはベルギーとともにある」
「テロには屈しない」
無差別的な犯罪が起きたとき、誰しもが「自分が被害者だったかもしれない」あるいは「これから被害者になるかもしれない」と想像する。
だから、何も言わずにはいられない。
日常を生き続けられるよう自分を奮い立たせるために「友情」や「連帯」、「不屈」といった言葉を並べ、街に繰り出すのだ。
しかし、その「連帯」にはどれだけの人間が含まれているのだろう。
「結束」は「敵対」とコインの裏表だ。
戦うべき敵がいるからこそ結束する。
しかし、僕らは誰と戦うのだろう。
過激派だろうか。
それは、正しいように見えて、実は重大な誤りを含んでいるように思う。
多少なりとも良識がある人なら、「西洋vsイスラム」という見方はしない。
多くのムスリムはテロなど起こさないからだ。
では、過激派とは何なのか。
確かにここ最近のテロはすべてイスラム過激派が関与している。
それでは、過激派を名乗る人・組織を全滅すれば世界は平和になるのだろうか。
僕はそうは思わない。
いつの時代もテロは存在した。
地域の独立や、圧政からの解放、新たなる理想を掲げ暴力的な手段に訴える人間は常に存在する。
1970年代には世界中で左翼グループがテロ事件を起こした。
日本でオウムがテロを起こしたのは20年ほど前だ。
もちろん時代ごとにその内実は異なるかもしれない。
現代のテロには組織的というより、ある思想に感化された個人、あるいは非常に小さなグループが事件を起こすという特徴がある。
一方で、テロを助長する思想は時代ごとに違うにしても、その根本にあるものは同じなのではないかと思う。
現代社会の主要な要素の一つに人権がある。
人は生まれながらにしてある種の社会的な権利を有しているという思想である。
この考え方では、個人は世界に一つしかない尊重されるべき存在である。
しかし、現実はどうだろう。
自分は本当に代替不可能な人間なのだろうか。
自分より優秀な人はいくらでもいて、自分がいなくても社会も仕事も回っていく。
資本主義の世界では、自分という存在に給料という形で値段がつけられる。
誰もが自分の価値をリアルに知ることになる。
自分は世界にただ一人の人間ではないのか、尊重されるべきではないのか。
そんな問いは常に現代人の頭をよぎる。
多くの人は、ある時点で折り合いをつけて生きていく。
しかし、生まれながらにしてある種の偏見や差別など理不尽の中で生きていたとしたら。
そういう理由から、自分の中に生じる違和感に折り合いをつけることができないとしたら。
傍目には普通の生活を送っているように見えても、心の中では疎外を感じているとしたら。
自分という存在の価値や意義を確かに感じるために、何らかの思想にすがるのは人の常だ。
それがイスラム過激主義だろうと新興宗教だろうと環境保護だろうと同じこと。
その中でも暴力とそこから引き起こされる恐怖は他者に自分の力を知らしめる最も安易な手段だ。
過激な行動の支柱となる思想がどういうものであろうと、最終的に行き着く先は暴力だ。
自分の存在を正当化するための手段として暴力を用いるのは明らかに怠惰で、身勝手な思考だ。
誰も殺さなくても努力すれば誰かに認められることはできる。
その点において、テロリズムに走る人たちを許すことは絶対にできない。
しかし、彼らが抱えているような疎外感や不安を感じる人間は決して少なくない。
それは、大なり小なり誰の心にも存在する。
たまたま自分は周囲の環境に恵まれただけではないのか。
自分が少しでも違う境遇の中にいたら、同じような思想に走ったのではないか。
そういう想像、そして恐怖は常に僕の中にある。
自分が被害者になるかもしれないという想像をする人は多いが、
自分が加害者になるかもしれない、あるいはなりえたかもしれないと想像する人はどれくらいいるのだろう。
僕の場合、そんな想像から生まれる感情は同情ではなく、恐怖だ。
同情など間違ってもしないけれど、自分が何らかの思想に救いを求め、ルールを逸脱することがありえたかもしれない。
今、自分がいわゆる「まとも」な人間として生きていられるのは単なる偶然なのではないか。
犯罪者になりえたかもしれないという想像なんてとんでもないと思うかもしれない。
しかし、その想像力は重要であるように思う。
テロリストを人間ではないある種の悪魔のように見立て、ただ排除するだけでは何も解決しない。
どんな状況でも疎外感・違和感を感じる人間はいる。
疎外感を感じる人間がいれば存在を認めてやり、
違和感を感じる人間がいればそれを正しい方向に昇華させる術を共に考えなければならない。
悲惨な出来事を目にしたとき、何かしなければいけないと思うのは普通のことだ。
しかし、あまりに多くの情報にさらされる現代に生きる我々は、どんな悲惨なことも自分に直接関係ない限り簡単に忘れてしまう。
いや、忘れるのではない。
飽きるのだ。
SNS上に氾濫するインスタントな連帯の表明は、新たな疎外を生むだろう。
なぜ遠い国の死者には祈り、身近な苦しみには目を向けてくれないのか。
なぜ豊かな人間の少数の死には涙するのに、貧しい国での多くの死には無関心なのか。
そんな疑念、不信感は強い負の感情へと変わっていく。
そうこうしているうちに人々の関心は新たな方向に向かっていく。
テロの度に拡散されるようになったポップなイラスト、キャッチコピーは、あと何度かすれば飽きられるだろう。
そして新たな形の「哀悼の意」が流行るのだ。
人々の関心が偏るのは仕方のないことだと思う。
どこにあるのかすらよくわからないような国で1000人死ぬのと、自分と同じような生活レベルの国で30人死ぬのとでは感じるものが違うのはしょうがない。
しかし、哀悼の意がネット上で拡散された途端に、その拡散度合いが人の命の価値を否が応でも見せつけてしまう。
貧しい国で起きたテロにも哀悼の意を表すればいいという話ではない。
氾濫する投稿が、不平等や疎外感といった人間がはるか昔から抱える負の側面と向き合う覚悟と思慮を持っているようには、僕は見えない。
ただ、自分を揺さぶる感情に従って衝動的に意思表明をすればいいのかもしれない。
ひょっとすると世界を救うのはSNS上で表明される「愛」なのかもしれない。
しかし、僕はそんなに素直にはなれない。
僕もまた、違和感と疎外感を抱える逸脱者なのだろう。